雪の色を奪ひて咲ける卯の花に小野の里人冬ごもりすな(藤原公実)

今日から歌群は卯月の由来となった「卯の花」、ようやく夏らしくなってきた。ちなみにこの白い花の正式名称は「ウツギ」である、また豆乳の搾りかすでもない。 さて、今日の歌の見どころは「奪ふ」にある。美しい花の白さは雪から奪った...

あはれてふことを数多にやらじとや春に遅れてひとりさくらむ(紀利貞)

立夏を過ぎて季節は変わったはず、だった。しかし昨日までの更衣数首をみて分かるように、いつまでも湿っぽく「春」を詠みこんで花を忘れられないでいる。極め付きは今日の歌だ。『感嘆を独占しようと、ひとつこの桜は遅れて咲いたのだろ...

夏衣花の袂に脱ぎかへて春のかたみもとまらざりけり(大江匡房)

衣替え、それはある種の人には絶望的な行為かもしれない。というのは、以前ご紹介した梅歌「梅が香を袖にうつしてとどめては」を思い出してほしい。春の名残を留めようと熱心に袖に移した梅の香りだが、衣そのものを替えてしまえば意味を...

惜しめどもとまらぬ春もあるものを言わぬにきたる夏衣かな(素性法師)

昨日に続き新古今集の夏からその二番、素性法師の更衣の歌である。素性といえばウィットに富んだ歌で古今集を代表するが、その滑舌は狂言綺語の並ぶ新古今にあっても淀みない。『惜しんだって春は止まらない。だからって、なんで着たくも...

わが宿の池の藤波咲きにけり山郭公いつかき鳴かむ(よみ人知らず)

古今集の夏の一番歌、詞書きによると柿本人麻呂製と噂される。和歌の春といえば梅にうぐいす、桜が情景を飾ったが夏はどうであろう? 実のところ「ほととぎす」一辺倒なのである。草花は繁り、鳥や虫の盛んに活動する季節にあってなぜか...

花は根に鳥は古巣にかへるなり春のとまりを知る人ぞなき(崇徳院)

暮春を締めくくる歌に撰んだ一首、詠み人は崇徳院だ。だからということもないが、悲壮感に胸が詰まる。花は、鳥はなごりの地へ帰する、それは母なる愛の場所だ。だが私は、帰るあてのない私はいったいどこへ行けばいいのだ、 誰も知らな...

行く先を惜しみし春の明日よりは来にし方にもなりぬべきかな(凡河内躬恒)

多くの数寄者にとって、春の暮れは年の暮れより重みがあったのだろう。今日の歌をみてもまたそれを強く信じる。『今までその行方を惜しんだ春、明日になれば昔の思い出となってしまうだろう』。解釈の余地はいくらもありそうだが、私には...

暮れていく春のみなとは知らねどもかすみにおつる宇治の柴船(寂蓮法師)

今日の詠み人寂連は藤原俊成の甥、定家とは従弟の関係にある。六百番歌合の「独鈷鎌首」のエピソードでも伝わるように御子左家を代表する歌人だ。その歌風は定家、家隆にも負けぬ当代流だが、コテコテの新古今調というわけでもない。絵画...

濡れつつぞしひて折りつる年の内に春はいくかもあらじと思へば(在原業平)

『濡れていますが、あえて折りました。春もあとわずかなので』。折ったのは藤の花、当然ながら送った相手は女であろう。ちなみに伊勢物語では第八十段にこの話がみえる。それは80字もない極小のエピソードであるが、情報が少ないぶんか...

うらうらに照れる春日にひばりあがり心悲しもひとりし思へば(大伴家持)

気持よく晴れた日、空高く雲雀が鳴いている。のどかな春の情景であるが、私はひとり物悲しい。作者は大伴家持、様々な政争に巻き込まれ解官をも経験するが、この歌の孤独はその時のものではない。地方官を歴任し、家持にとって孤独とは人...

ながむれは思ひやるべき方ぞなき春のかぎりの夕暮れの空(式子内親王)

花はとうに散り失せた、しかし花を求める心は消えるのを止めない。求めてしまう、花のありかを、美しく咲き誇った白雲の花を。うわの空に夕暮れが落ちてゆく、春の終わりを告げるように。 「夕べは秋となに思ひけむ」という歌があるよう...

よそに見て帰らむ人に藤の花這ひまつはれよ枝は折るとも(僧正遍昭)

先に言っておくと、私は僧正遍照のファンである。みなさんはどうだろう、遍照にどのようなイメージをお持ちであろうか? 私のそれは「エロ親父」である。六歌仙の一人だとかなんとか関係ない、大和物語での小野小町とのエピソード、あの...

七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞかなしき(兼明親王)

「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞかなしき」(兼明親王) 山吹が詠まれたもので、もっとも人口に膾炙するのが今日の歌だろう。詞書きをみるとある雨の日、蓑を借りたいとう客人に代わりに山吹の枝を持たせた、後日その...