埋れ木の花さく事もなかりしに身のなる果ぞ悲しかりける(源頼政)
花の文字が見えるが季語にならない、埋れ木となって果てる我が身を譬えた源頼政の辞世歌だ。頼政は平治の乱に平家方として加わり清盛政権において従三位に昇った。しかし源氏の魂は朽ちず以仁王を伴って挙兵、宇治川の戦いに敗れ、最後は...
花の文字が見えるが季語にならない、埋れ木となって果てる我が身を譬えた源頼政の辞世歌だ。頼政は平治の乱に平家方として加わり清盛政権において従三位に昇った。しかし源氏の魂は朽ちず以仁王を伴って挙兵、宇治川の戦いに敗れ、最後は...
『早瀬川を遡る鵜飼舟よ、お前はただでさえ地獄が待っているのに、まずこの現世はどれほど苦しいものなのか』。どうしてこのような解釈になるのか、能の「鵜飼」に詳しいが、ようするに鵜飼とは殺生のカルマを負っているため地獄へ堕ちる...
「竹林」、今や日本美の典型であるが、これの成立は案外新しい。それこそ玉葉集ひいては京極為兼の功績と言えよう。「歳寒三友」をご存じだろうか、中国文人画では寒きに耐える友として好まれ、日本に伝わると慶賀の象徴となった、いわゆ...
『窓ちかくの竹の葉は風に遊ばれて、今何時だろう? うっすら夢を見たような、おぼつかない夏の夜』… 夏の夜の寝苦しさは昔も今も変わらぬとみえて、やはり全く違うようだ。 現代の都市部は冷めやらで、夜の最低気温が摂氏25度以上...
源氏の贈答歌には、不義の罪業を共にせんとの嘆願がみえた。藤壺はこれにどう答えたか? 以前にも少し触れたが今日の歌、古註論争に事欠かない。初句「袖ぬるる」の主体を藤壺とみるか源氏とみるか、四句「なほうとまれぬ」を「打消」と...
さて、今日の一首も源氏物語から。昨日はうら若き玉鬘に色めくエロおやじとなり果てた源氏をご紹介した。しかしかつての「光る君」はどこへ行ってしまったのか? それは「かがやく日の宮」と聞こえた藤壺を亡くした時点で闇に消えてしま...
「撫子」は別に「常夏(とこなつ)」の異名を持つ。これは撫子が秋の七草にも数えられるように、夏を越え秋にかけて花を咲かせることに由来する。さて、今日の歌は源氏物語から撰んだ、巻はずばり「常夏」、いわゆる「玉鬘十帖」の中ほど...
印象的な写生歌に長けた式子内親王であるが、今日のような物語調の詠歌も珍しくない。ただ俊成卿女の名手と違ってあくまでも淡泊に身悶えてみせる。『決して戻りはしない過去、それを今と思うような夢まくら。花橘が匂っていたのだ』。こ...
今日の橘、昨日までとは様子が異なる。「しめる」とは匂いを染み込ませるの意、つまり風に散る花橘の香りを袖に移し、それをもって彼女との添い寝の手枕にしてやろうというのだ。伊勢六十段の文脈はほとんどなくなっている。ただ男の企み...
『夕暮れは、どの雲を吹いた風の名残というので、花橘はこんなにも懐かしく薫るのだろう』。「雲の名残」はたんなる夕暮れの風景などではない、荼毘に立つ煙のメトニミーとなる。つまりこの歌は四季の体を成しながら、実体は花橘に寄せた...
昔の人を思い出すという花橘の香り、嗅いだことがあるだろうか? 梅や菖蒲もそうであろう、確かにリアルな自然を経験していた方が歌の共感力は高まると思う。しかしそんなもんなくたって、いやかえってないほうが歌に陶酔できる場合があ...
『今年から咲きはじめた橘の花が、いったいどうした理由で昔の香りに匂っているのだろう』。本当にどうしたというのだ? というのは香りの理由ではない、新古今の名うて家隆らしからぬ平凡のそれだ。花橘は「昔の人を思い出す」というノ...
「花橘」が詠まれたこの歌、古典ファンであればそらんずる方も多かろう。古今集では題知らず、よみ人知らずで採られるが、伊勢では第六十段に「むかし男(業平)」の歌として物語が載る。詳細は出所に譲るが、女(元妻)が酒の肴に出した...
『五月雨が上がった空、なんだか心が惹かれる匂い。きっと花橘に風が吹いてるんだ』。いかにも和歌らしい余情を感じる風景が詠まれている。これまで数首の五月雨を鑑賞したが、お気づきになられただろうか? それは五月雨は、鬱蒼と降り...