行きなやむ牛のあゆみに立つ塵の風さへ暑き夏の小車(藤原定家)

今日の一首はそれだけで、玉葉集のそして藤原定家という人のチャレンジングな面が分かる。『歩くのも苦労する牛の足取りに、立ち起こる塵の風までも暑い夏の小車よ』。まず牛車を扱っただけでも新しさがあるが、新奇性の心眼は「夏の暑さ...

一重なる蝉の羽衣夏はなほ薄しといへどあつくぞありける(能因)

今も音楽シーンに多様なブームが起こっては消えるように、かつて和歌にも様々な歌風の流行があった。古今、新古今などはそういった視点で語られることも多いが、これらの間を埋める泡沫勅撰集にこそ、多種多様なブームがあったことを知っ...

空蝉の身をかへてける木のもとになほ人がらの懐かしきかな(光源氏)

空蝉(蝉の抜け殻)というモチーフは好んで恋の場面に用いられた。昨日のケースでは魂が抜け出た無気力状態に譬えられていたが、今日は身代わりのまさに抜け殻として使われている。ご存じであろう、源氏物語の第三帖空蝉だ。世に言う「雨...

うちはへて音を泣きくらす空蝉のむなしき恋も我はするかな(よみ人知らず)

心身二元論をご存じだろうか? 「我思う、ゆえに我あり」の文句で知られる17世紀の哲学者ルネ・デカルトが唱えたとされるが、要するに心と体はそれそれ独立した存在であるという考えだ。ちなみに二元論を西洋的、一元論を東洋的とする...

夕立ちのまだ晴れやらぬ雲間よりおなじ空ともみえぬ月かな(俊恵)

『夕立の後のまだすっきり晴れていない雲の間から、同じ空にあると思えない明るい月が見える』。詞書には「雨後月明といへる心をよめる」とあり、題詠だとわかる。とすると、なるほど題をなぞっただけの歌ではないか。しかしそれでも見ど...

夕立ちの風にわかれてゆく雲に遅れてのぼる山の端の月(藤原良経)

風雅集に採られた良経の写生歌、例によって適役は不要だ。夕日と月が交換する、眩い瞬間を切り取ったフォトジェニックな一首である。新古今であれば「風に分かれる雲」や「遅れておぼる月」といった前景化されたモチーフの裏に必ず別の思...

庭の面は月漏らぬまでなりにけり梢に夏の影しげりつつ(白河院)

白河院というと独断専行、非情な独裁者というイメージが強いかもしれないが、今日の歌など見ると印象もまた変わってこよう。『庭の表面は月の光が漏らないまでになった。木枝に夏の葉が繁りに繁って』。見どころは「梢に夏の影」、なんと...

軒白き月のひかりに山影の闇を慕いてゆく蛍かな(後鳥羽院宮内卿)

「白々とした月明かり」と「山影の深い闇」が競う、おぼろなる幻想の夜。蛍は闇を選び、その中を気ままに遊んでみせる。「マティス亡きあと、シャガールのみが色が何であるかを理解している最後の絵描きだった。」ピカソが残した有名な言...

あはれにもみさおに燃ゆる蛍かな声たてつべきこの世と思ふに(源俊頼)

「伝統」とは便利な言葉である、これを枕にすればあれよと「箔」がつく。ましてこれ(伝統)を墨守するのが使命! なんて言おうものなら、無条件で立派なことをしているように思われる。大間違いだ。今に残る伝統は決してねんごろに守ら...

鳴く声も聞こえぬ虫の思ひだに人の消つには消ゆるものかは(蛍兵部卿宮)

「咬ませ犬」という言葉があるが、今日の詠み人は日本文学史上それに相応しい初めての人だろう。源氏物語に登場する蛍兵部卿宮だ。源氏の異母兄弟で、絵合わせや薫物合わせの判者をも務める風流人として描かれるが、なかでも印象的なのが...

音もせでおもひに燃ゆる蛍こそなく虫よりもあはれなりけれ(源重之)

ラフマニノフの心地よさと言ったらいいだろうか。甘美で艶なる旋律は抒情をやすやすと揺さぶってみせる。源重之の歌はまさに正統的な詠みぶりで、つね外れることのない安心感がある。『音もせずに忍んで恋に燃える蛍は、鳴く虫よりも心に...

沢水に空なる星のうつるかと見ゆるは夜半の蛍なりけり(藤原良経)

詠み人に良経とあるが、その仮名序をも記した新古今時代の才器ではない。藤原行成の子である。後拾遺和歌集に採られた歌であるが、意外にも蛍という言葉が明確に四季に詠まれたのは、この集が初めてである。蛍は「火」と「思ひ」を掛け、...