風の音に涼しき声をあはすなり夕山影の谷の下水(京極為子)
今日の詠み人は京極為子、為教の娘である。だからといって為子なんて名前はあんまりだ! と考えるのは現代人の感覚である。ちなみに二条為世にも為子という娘がいて間違いやすい。このころは為家由来の「為」がブランド化されていたのだ...
今日の詠み人は京極為子、為教の娘である。だからといって為子なんて名前はあんまりだ! と考えるのは現代人の感覚である。ちなみに二条為世にも為子という娘がいて間違いやすい。このころは為家由来の「為」がブランド化されていたのだ...
今日の歌も昨日の俊恵の趣向に近い、法眼実快というから詠み人もおそらく同じ坊主であろう。しかしちょっと面白いので取り上げてみた。なにかといえば結句の余韻である。『堰き止めた山かげを流れる水に見え隠れして住んでいたものを、秋...
納涼の手段はいろいろあれど、海水浴にプールやはり定番は水遊びで間違いない。それは昔もおんなじで、和歌でも晩夏のころには「水」にちなんだものが詠まれる。『岩の間から漏れた湧き水を、ちゃっかり俺んち家へ流れるように堰き止めて...
今日も千載集から、珍しい題で詠まれた歌をご紹介しよう。詞書には「水草隔船といへる心をよみ侍りける」とあるので、題はそのとおり“水草を隔てる船”だ。歌には…『夏も盛りの美しい入り江で繁る葦、その葉がそよいで、ああ船が通って...
新古今集の影に隠れがちだが、俊成が編纂した千載集も一字千金の見事な歌集だ。滑稽に傾いていた勅撰集の歌風を王道たる古今調に戻し、次の新古今への道筋をつけた。全体的な評価はこうだが、子細をみるとまた面白いことに気づく、それは...
『夕立の雲を飛び分けてゆく白鷺、その翼に雲を引っ掛けて太陽が見え出した』。花園院の写生歌、と言いたいがおそらく実景ではなかろう。夕立を降らせた白雲の名残、そこを飛びわたる白鷺に照り始めた太陽! おそらく院が思い描く理想的...
『いつの間にか涼しくなってきたようだ。夏衣の紐を結う、夕暮れの雨の名残で』。上下が倒置されているが、なんということもない歌だ。少しの違和感があると思うが、それは「夏衣」の縁語として選ばれた四句「紐結ふ」に発する。ご理解の...
なぜに定家は頼政をかの百人一首に選ばなかったのだろう。今日の歌はそこいらの歌人では決して詠めない秀歌である。『夕立に濡れた庭はまだ乾かぬままに、空には澄みきった月が昇っている。あぁ美しい!』。情景の切り取り方もさることな...
『風が速いのでもはや雲の一群は峰を越えたようだ、山の頂が見えはじめる夕立のあと』。伏見院の夕立の歌、昨日の式子内親王と比べるとあさっりとしていて、さすが純写生歌の旗手といった風だ。どちらが優れているか、問われれば私は式子...
いい歌というものは、詠まれた情景がすんなりイメージできる。しかしそれだけでは世々に語り継がれる名歌とはならない。そこには「あはれ(感動)」が必要なのだ。ところで感動とは「心が動くこと」である、だから決まってセンチメンタル...
暑さを不得手とした、正確には無視続けた平安歌人。定家の先日の挑戦は認めるが、珍奇の誹りを免れまい。そこへゆくと西行という歌人の力量はすごいもんだ。『暑さでねじれている、野原一面の草に影が落ちて、涼しく曇り始めた夕立の空』...
『山の麓の遠くの日陰がくっきりと浮かびあがっている。その一方で、涼しい夕立の雲が見える』。詠み人は藤原為家、言わずと知れた御子左家を継いだ定家の三男、後妻阿仏尼が記した十六夜日記には「二度敕を受けて世々に聞えあげたるは、...
『袖に吹き添う涼しい風を先立てて、空は慌てて曇り始めた。夕立が、もうすぐ降る』。誰もが感じたことがあるだろう、夕立の直前、空気が変わる瞬間を捉えた風景歌だ。しかし誰でも経験がある平凡を「歌」にするのは案外難しい、単なる日...
昨日に続き、真夏の定家である。『水平線の彼方、南の果てにはどでかい入道雲。あいつはそこに居直って、ほとんど動かない。今日も真夏の太陽がジリジリ照りつける』。これは和歌だろうか? おぼろな水墨画の陰影、これこそが和歌の美で...