袖ひぢてわが手に結ぶ水のおもに天つ星合の空をみるかな(藤原長能)
勅撰和歌集の見どころの最大は歌風の表われだろう。これが漠然としている集は、なんとなく面白味に欠ける。これまでの七夕歌で万葉集と古今集の歌いぶりを鑑賞してきたが、新古今集もやはり新古今集といった特徴をはっきりと感じることが...
勅撰和歌集の見どころの最大は歌風の表われだろう。これが漠然としている集は、なんとなく面白味に欠ける。これまでの七夕歌で万葉集と古今集の歌いぶりを鑑賞してきたが、新古今集もやはり新古今集といった特徴をはっきりと感じることが...
「ひとりかも寝む」。この馴染みやすくていかにも和歌らしいフレーズは、実のところある時期に起こった一過性の流行りに過ぎない。その時期というのが新古今であって、立役者は定家とみてほぼ間違いない。今日の歌も詠み人は貫之であるが...
今日の七夕歌も古今集また素性法師らしい一首だ。『今夜来る人には逢わない、だって織女のように長く待つようになるのはやだからね』。昨日と同様に七夕伝説をネタとして扱いながら、ウィットを洒脱に効かせている。和歌というと情趣が連...
七夕伝説への憧憬を素朴に歌った万葉歌人はどこへやら、古今歌人達にとって七夕はもはやネタの一つに過ぎないようだ。『天の川の浅瀬を知らなかったので、川を渡る前に夜が明けちゃったよ~』。年に一度の逢瀬の感動なんてまったく無視、...
昨日述べたように万葉集の七夕歌は単純志向がすぎて鑑賞に値しないのも多いが、一方で万葉集だからこそ採られた大胆な歌もある。『長く待ちわびたが、秋風に乗ってようやく織女の声が聞こえた。さあ、腰紐をほどいて行こう』。この歌はそ...
七夕伝説が日本に伝わったのは奈良時代といわれる。ちなみにこれが日本元来の「棚機津女」伝説と習合した結果、七夕を「たなばた」と言うようになった。さて、万葉集では七夕伝説の影響をもろに受けている。巻十の「秋雑歌」はのっけから...
秋風は「秋」という季節と同時にあることを知らしめる、「七夕」だ。言うまでもなく七夕は旧暦七月七日の夜、牽牛と織女が年に一度の逢瀬を遂げるという古く中国から伝わる物語である。これが新暦で行われるようになって多くの人が七夕を...
少なからず秋風には久しい友との再会を思わせる感動があった、だが今日の歌はどうだろう。『秋風は肌寒くなってきた。一人で寝るのだろうか、長いこの秋の夜を』。印象的なのは「けり」で結んだ三句切れ、この歌において上句と下句の世界...
小野小町という人は、いつどこでも小野小町だ。ふつう古今なら古今、新古今なら新古今と採られた集によって相応しい歌が採られるものだが、小町にはそれがない。いつもしのび泣きに袖を濡らしている。しかも恋部でも四季部でも、秋でも春...
自分の体験を歌にする、そんな当たり前の先駆者が式子内親王であった。それでいうと今日の詠み人、永福門院は式子の正式な継承者と言えるだろう。しかもその思想はさらに先鋭化している。京極派、とりわけ永福門院にとって伝統的な和歌な...
今日の歌もまた趣向が冴えている、式子内親王である。昨日までの秋風は野辺をさやいで、目にも耳にも広々と感じられたが、式子のはいたってこじんまりしている。何と言ったって、『自分であおいだ扇の風』に秋を感じるというのだから。し...
「風に秋を感じる」とは和歌の常套であり、立秋のころは同じような歌が大量生産された。これもご挨拶程度であれば構わなかったかもしれないが、歌に芸術を志向するようになると安易な真似ごとは敬遠されるようになる。顕著なのが新古今だ...
驚きの事実を述べよう、今日8月8日は「立秋」つまり季節はもう秋なのである。おそらく現代日本人としては、ようやく今が夏の折り返し地点くらいの感覚であるが、暦の上では間違いなく今日から「秋」なのだ。二十四節季は太陽の運行を基...
古今集歌人において、貫之を横目に女性ファンから圧倒的な人気を集める凡河内躬恒。個人的には凡作が多い印象でそれほど感心しないのだが、時折目の覚めるようなメルヘン世界を爆発される。これに魅了される人がいて決して不思議でない。...