映画『国宝』を観た。素晴らしかった。
内容は、血(血縁)の物語であり、また歌舞伎に生涯をかけた男の友情の物語でもある。しかし本質的には、タイトルのとおり「人間国宝」となった人間、すなわち芸を究めた者が見た世界を描いていた。例の「ガンダム ジークアクス」風に言えば、それは『キラキラ』である。
もとい、今回とりわけ素晴らしかったのは、主演・吉沢亮さんの芝居だという点に疑いはない。彼の出演作で記憶があるのは、NHK大河ドラマ『青天を衝け』での渋沢栄一だが、正直なところあまり惹かれなかった。同じ大河ドラマでいえば、横浜流星さんの『べらぼう』の方がずっと好みである。
しかし今回の吉沢さんの演技は圧巻だった。いや、もちろん横浜さんも素晴らしかった。ふたりが共に演じたクライマックス、「曾根崎心中」は、まさに命を削るような芝居だった。
それでも、ふたりとも現実には「歌舞伎の血」を持たない役者である。
映画のテーマである「歌舞伎の血」を持たぬ彼らが、この作品のためにわずか一年半の稽古を積み、本職の歌舞伎役者をも凌駕する芝居を見せていた。当然ながら、映画という映像作品の特性もあり、単純に比較することはできないが、それでも「本物」を超える感動がそこにあった。
もちろん、トップ俳優たる彼らの努力と才能は、常人の域を超えているのだろう(「だろう」と婉曲に言うのは、私が門外漢であるからである)。
だが、彼らが命を削るような芝居を演じられたのは、歌舞伎という伝統芸能が作り上げた「装置」があったからだ。つまり、一定の稽古を積んだ(もちろん、それは並大抵ではないが)役者であれば、同じような表現の領域に到達できるということだ。
伝統芸能における芝居には「個性」がない。決められた台詞、言い回し、所作——それらを徹底的に「型」にはめる。それは、一切の無駄がそぎ落とされた、純然たる美の様式である。そこに生命が湧き上がってくる。そうした表現があることを、今回の映画であらためて体験させられた。
毎度のように「和歌」に結びつけて恐縮だが、和歌こそ型の文芸である。型に縛られた、実に窮屈な文芸である。
それでも、私が現代短歌よりも圧倒的な美・生命力を和歌に感じるのは、和歌が歌舞伎と同じ「装置」を備えているからだ。
確かに、和泉式部や西行のような生得の歌人、すなわち吉沢さんや横浜さんのような天賦の才をもつ者はいる。しかし、ある域に達した歌人であれば、生命が立ち昇るような歌をいくつも残している。それは、個人の才能や努力を超えて、「和歌」という古典文芸の装置、すなわち純然たる美の世界が機能した結果なのだ。
もちろん、そこに至るまでには稽古が必要である(血のにじむとはいいたくないが)。しかしある領域に達すれば、いにしえの歌人たちと同じ世界に立つことができる——私はそのように確信している。
自分がその域に達している、などと言うつもりはない。ただ、それを信じて——みなさん共についてきてほしい。
(書き手:内田圓学)
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