今、若者を中心に伝統的な「和歌」の世界観が評価されつつある、そんな空気を感じています。「和歌」が変わったのか? 違います、和歌は変わらず埋も木のように人知れずありました。変わったのは「時代」です。今まさに、時代が大きな転換期を迎え、和歌という日本の伝統精神が受け入れられはじめたのです。
近代以降、世界(西側諸国)は「リベラルデモクラシー」を信奉し、それを絶対的な思想として発展、発信してきました。「明日は今日より良くなる」「科学技術は進歩し続ける」「個人の自由の追求こそが幸福である」——こうした考え方は、東西冷戦の終結以降、ますます加速し、誰もが疑うことなく受け入れてきました。しかし、今まさにその前提が崩れようとしています。世界は混迷を極め、国家は歴然と反目し、自由と安定を疑う時代へと転換しつつある。「明日は今日より悪くなる」「自国・民を優先し」「自由より統率が進む」——こうした秩序のバックファイヤーによる混沌が、私たちの目前に、いや、すでに足元に広がっています。
この変化を最も敏感に察知しているのが、これからの時代を生き抜かなければならない若者たちなのでしょう。「リベラルデモクラシー」という一つの思想が揺らぎ、次の時代の価値観が求められる今、若者たちは新たな拠りどころすなわち「物語」を模索しはじめた。その中で、日本の伝統的な揺るぎない価値観が注目を集めているのではないでしょうか。
このような言説に対し、安易に「右翼的だ」と決めつけるのは、もはや古びたリベラルの思考停止ではないでしょうか。戦後昭和の発展期をのほほんと生きた世代にとっては、もはや当事者意識のない他人事なのです。しかし、これからの時代を担う若者たちにとっては、これは生死を脅かす大問題なのです。
本来、こうした混迷の時代を導くひとつが宗教なのでしょう。しかし、日本において宗教は、戦中の皇国史観への反省や、オウム真理教事件などカルトの影響によって、安易に頼れないものとなってしまいました。さらには、既存の仏教は葬式仏教と化し、「自力と他力の違い」すら示せぬまま、観光資源として消費されるばかりの現状です。
しかし、日本には「道」があります。茶道や剣道、神道といった「道」には、その根底に伝統的で揺るぎない精神性が流れています。いま若者たちは、そこに関心と拠りどころを感じ取っているのではないでしょうか。
そしてこの「道」の中で最も尊いもの、それが「歌道」である、と私は断言します。和歌は、神代において須佐之男命の歌にはじまり、万葉の時代には身分を問わず詠まれるようになりました。平安時代には初代勅撰集『古今和歌集』により美意識が完成し、その系譜は近世に至るまで日本人へあまねく影響を及ぼしてきたのです。歌道こそが、日本人の心をつなぐ万世一系の物語であり、思想・文化の根幹なのです。
しかし、あろうことか近代日本人は和歌を捨て去ってしまいました。進歩と個人主義を至上とするあまり、和歌は伝統の象徴として「つまらぬもの」の汚名を一身に受け、葬られてしまったのです。そう、歌道は一度死んだ。——だからこそ今、私たちは歌道の復興に挑んでいるのです。日本人の精神の源泉を再び表し、これを未来へとつなげようとしているのです。
歌道の復興とは単に古い歌を詠むことではありません。古の歌人たちが連綿と詠み続けてきた歌にこころを重ね、自らもまたこの道のひとつとなる。そして、その歩みが未来へと続く道とする、まさに「敷島の道」をともに歩むことです。
私の言葉に反感を覚える方は、昨日と変わらぬ個人の自力万能の幻想に浸り、浅はかな内面の吐露に満足してください。しかし、もし共感いただけるならば、ぜひ古の歌・心を仰ぎ見て、ともに歌道を歩みましょう。歌道の足跡を辿ることで、無常の世の中で孤独な自分の現在地を見出し、将来の生きる指針をもきっと見出せることでしょう。
(令和和歌所 内田圓学)
令和和歌所 歌詠みの心得
一.神代より始まる敷島の道を尊び、足跡を重ねる
一.初代勅撰集「古今和歌集」の姿を理想とする
一.古歌をもって師となす
一.古来からの「やまと言葉」のみを用いる
一.自分より他者・自然に哀切のこころを寄せる
一.「詠み・書き・歌う」の三位一体の収斂に励む
一.後世への継承を使命とする
以上
【字幕解説つき】『春の歌合』題 遠山桜 一~十番(令和七年二月)
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