【百人一首の物語】九十三番「世の中は常にもがもな渚こぐあまの小舟の綱手かなしも」(鎌倉右大臣)

九十三番「世の中は常にもがもな渚こぐあまの小舟の綱手かなしも」(鎌倉右大臣)

歌の「かなし」は「心が惹かれる」という意味です。これを今の「悲しい」とすると、歌の意味が意味薄弱となってしまいます。とはいえ渚を漕いでゆく漁師の小舟に引き綱をつけて引くさまに惹かれて、この世の常なるを願うのは、実朝という人間の個性というよりほかなりません。

実朝は「鎌倉右大臣」の名で採られていますが、一般的には鎌倉幕府の「第三代将軍」としてのほうが知られているでしょう。その初代はもちろん頼朝、そして嫡子頼家と続き、実朝はわずか十二歳にして三代目の座につきました。しかしその内実はというと…

「当代は蹴鞠をもって業と為し、武芸は廃るるに似たり、女性をもって宗となし、勇士はこれなきごとし」
吾妻鏡

と御家人(長沼宗政)に評されるありさま。それでも後年は政治への関与を強め、渡宋計画などをぶち上げたりするのですが、その結末はご存じ無残なものでした。

享年は二十八歳で、お膝元の鶴岡八幡宮で甥(頼家の次男)の公暁に殺されてしまうのです。当時、次代の将軍を宮家から招こうと画策していて、その座を狙っていた公暁が強硬手段に出たと言われています。鎌倉の、武士の権力争とはこれほどに凄惨であったのです。実朝の死によって、源氏将軍の血はあっけなく終わってしまいました。

このように政治的な功績はほとんどない実朝ですが、一方で歌人としては多大な影響を残しています。たとえば、ある人に言わせるとこうです。

「実朝といふ人は(中略)とにかくに第一流の歌人と存候。(中略)実に畏るべく尊むべく、覚えず膝を屈するの思ひ有之候。」
歌よみに与ふる書(正岡子規)

万葉以来ついに現れた、第一流の歌人! 有名な文句なので子規の評を取り上げましたが、こうした実朝像はなにも明治期の革新的歌人らにはじまったことではなく、江戸時代には賀茂真淵が賞賛して歌集「金槐和歌集」の注を加えたり、かの松尾芭蕉も西行とならんで鎌倉右大臣を褒めあげたほどでした。

しかし実朝が「ますらおぶり」の歌人であるというのはほとんど作り上げられたイメージです。「金槐集」を見渡せば古今集の類型歌が占め、あきらかな万葉風などほとんどないことに気づくでしょう。これは実朝が歌の教えを請うたのが古今集に理想を求めた藤原定家であることを知れば、むしろ「たおやめぶり」に傾いていて当然なのです。

確かに百人一首歌(「綱手かなしも」)などには万葉の風を感じるのかもしれません。しかしこれさえも、古今集所収歌の本歌取りなのです。ということで実朝が理想的な万葉歌人だなんてのは新興の、もっといえば京に引け目を感じる関東の歌人の願望でしかありません。

それでは実朝の歌にある「おおらかさ」「素直さ」なんてのはどこからくるかと言えば、それこそ「東歌」にあるのでしょう。東歌は古今集に採られた歌でも万葉の雰囲気を強く残していますし、じつのところ「綱手かなしも」も古今集の中の東歌の本歌取りなのでした。

「陸奥はいづくはあれど塩釜の浦こぐ舟の綱手かなしも」(よみ人知らず)

実朝は将軍である以上に歌人でした、大都会である京の都にあこがれ続けた、鄙びた関東の田舎の文学青年であったのです。なんとか一流の風流人になりたい、この一心で、貴族の娘を妻にし、より高い位を望み、大歌人に学びました。その一方で実朝は関東を愛し、この地の領主たる矜持も強く抱いていたのです。実朝が東の地で詠んだ歌※は、彼の愛情がそのままに溢れています。

※「わたつ海の中にむかひていづる湯の伊豆のお山とむべもいひけり」(源実朝)
※「箱根路をわが越えくれは伊豆の海や沖の小島に波のよるみゆ」(源実朝)
※「宮柱ふとしきたててよろづ世にいまぞさかえむ鎌倉の里」(源実朝)

(書き手:和歌DJうっちー)

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