百人一首の物語(序)

伝統的和歌がイコール「百人一首」となっていくばくか。
古今、新古今などの歴史的勅撰集さえ顧みられなくなったこの世を憂うと同時に、和歌というつまらぬ文芸をいまだ広く知らしめてくれる百首歌に敬服の念を覚える。

となれば令和時代の和歌所として、この偉大なる日本文化の宝にあらためて真摯に向き合うべきだろう。よってここに気持ちも新たに「百人一首」の鑑賞を行う次第である。

さて、そもそも「百人一首」とはなにか。
一般には藤原定家が宇都宮蓮生の求めに応じて作成した色紙が原型と承知される。蓮生(頼綱)は定家の嫡子為家正妻の父であり、宇都宮にはじめて歌壇を築いた歌人でもあった。京都嵯峨野の別荘(小倉山荘)の襖の装飾を、蓮生はただならぬ間柄の定家に依頼したのだ。
ちなみに百首を一式とする形式は珍しいものではない。「堀川百首」以来、歌の詠進といえば百首というのが定番になっていたと思われる。

ところでこの撰ばれし百首に愚作が混じっているものだから、本当にかの藤原定家の審美眼によるものなのか疑いを向けられることになった。「蓮生撰歌説」や「宗祇仮託説」なんてのはその代表である。
ただそれも頷ける。例えば八十六番、私でさえもっと素晴らしい西行の歌を知っている。さらに業平、能因、俊成、良経、家隆など… 彼らの優れた歌を知る人ならば、定家の百人一首に不満を抱くのは当然だ。

八十六番「嘆けとて月やはものを思はするかこち顔なるわが涙かな」(西行法師)

だからして、これは単なる秀歌撰ではなく別の理由があると言う者まで出てきた。曰く「後鳥羽院の鎮魂」に真の目的があるという。
定家は後鳥羽院によって見い出された、新古今という歴史的仕事も後鳥羽院あってこそであった。その後両者の心は離れ、承久の乱によって院は隠岐に流されその地で没するのだが、定家がこれを悔やみ鎮魂の意味を込めて撰んだ百首歌がこの百人一首であるといのだ。
なるほど百首の裏にこのような物語があったとすれば感動も一入であろう。ちなみにその根拠とされるのが以下の歌。

二十九番「心あてに折らばや折らむ初霜の置きまどはせる 白菊の花」(凡河内躬恒)
九十七番「来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに 焼くや藻塩の身もこがれつつ」(藤原定家)

二十九番「置きまどはせる」に「隠岐」を掛け、九十七番自身の「夕凪」に隠岐の荒き波風の穏やかなるを願うというが説の中心となっている。しかし僅かこの二首で、そこまで多大な願は託せないというものだ。

百人一首はやはり、定家の審美眼によって撰ばれた秀歌集である。
納得出来ないとしても…

定家は百人一首以外にも秀歌データベースを複数作成している。それが「近代秀歌」であり「二四代集」だったりするのだが、これらに収集した歌がことごとく百人一首歌と重複しているのだ。「近代秀歌」には九十二首が「二四代集」にいたっては九十四首が百人一首と重複し順序までもが同じなのであるから、これを偶然と言う方が難しいだろう。

百人一首はどうあっても、藤原定家自身が撰んだものであるのだ。

しかしそれでも不満が残るのは、定家が「新古今和歌集」という稀代の文芸作品の立役者であったということだ。余情妖艶を標榜し、詞によって幻想的世界を表象させた天才、これこそが藤原定家という歌人であったはずだ!

ご存知かもしれないが、百人一首はすべて歴々の勅撰集から歌を採っている。これを分類して分かるのが、大半(四十一首)が三代集から採られていることが分かる。千載・新古今からの撰出も三十首弱あるとはいえ、これらもことごとく古今調なのだ。
つまり定家は百人一首に、自らが主導し優美を極めた“新古今調”の歌を全く採っていないのだ、ほとんど無視するがごとく。

なぜだ!

その実、定家は五十歳ごろを境に歌の理想が随分と変わってしまった。新古今、拾遺愚草の歌風と二四代集、新勅撰集などの撰歌を比べれば自ずと分かるだろう。一言で言うなれば、彼は文芸の革命家から古典主義者へと180度方向転換したのだ。

「詞はふるきを慕い」「寛平以往の歌に習う」…

百人一首は定家が七十四歳の時の仕事であった。古今集を筆頭とする三代集を聖典のごとく重んじるようになっていた定家翁は、依頼された百首歌を、その理想のままにまとめ上げたと言えよう。

実のところ定家に関わらず、この時代の貴族は多かれ少なかれ古典主義であった。擬古物語の流行もそうだし、慈円による歴史書「愚管抄」もその表れだろう。定家の場合などはすでに親父の俊成が古今集を再発見し理想としていたのだから、本当のところその方面の生粋だ。
武家の台頭、貴族の凋落。あえて語るまでもないが、定家が生きた平安末期から鎌倉というのはそういう時代だったのだ。

惜しむらくは百人一首に新古今の優美の残像が僅かでも残っていたら、私たちが古典に抱く印象も随分変わっていたことだろう。

さて、まとめると「百人一首」とは伝統の結晶である。
藤原定家という一歌人、一人間が思い描いた理想であり憧れであり、また後世に継承せねばならぬ「王朝文化の伝統」が凝縮されたのがこの百人一首であるのだ。

一番歌からそれは如実に示されている。

「天智天皇」。
この第三十八代天皇を一番歌に採った時点で、定家の企ては決しているのだ。
それではさっそく、百人一首の「伝統」を紐解いていこう。

「百人一首の物語」一覧

(書き手:和歌DJうっちー)


令和和歌所ではメーリングリストで歌の交流(セッション)を繰り広げています。現代の「和歌」の楽しさをぜひ味わってみてください。初心者の方のご参加も大歓迎です。