【百人一首の物語】八十九番「玉の緒よ絶えなば絶ねながらへば忍ぶることのよはりもぞする」(式子内親王)

八十九番「玉の緒よ絶えなば絶ねながらへば忍ぶることのよはりもぞする」(式子内親王)

百人一首には女性歌人が二十一人採られていますが、皇族は思いのほか少なくて二番の持統天皇と八十九番の式子内親王のみです。持統天皇は天智天皇の皇女で、今まさに天皇家の日が昇らんとする時代を生きた人でしたが、反対に後白河天皇の皇女である式子内親王は保元平治、治承寿永の乱という天皇家の没落を定めた戦乱の時代を生きた人でした。

知られるところですが式子は多感な頃を賀茂の斎院として過ごしています。斎院とは賀茂神社の祭祀に仕える女性のことで、伊勢の斎宮に倣って平安時代の初頭から立てられ代々天皇家の皇女が担ってきました。清浄を求められため斎院も任が終われば結婚しても問題ありませんでしたが、ほとんどの斎院経験者は生涯独身だったといいます。そしてそれは式子内親王も同じでした。

と、このような話を聞くと、式子内親王の生涯はさぞかし暗く孤独であったかと思われるでしょう。実際、式子をそのように紹介している例は多いですし、この百人一首歌がさらにそのイメージを強固にしているようです。

「玉の緒(わが命)よ、いっそ絶えてしまうなら絶えてしまえ! 忍びきれなくなるくらいなら」

抑えられない感情の渦、強烈な恋の切迫感が式子の人格までも決定づけ、彼女を悲哀と孤独に満ちた歌人に仕立て上げました。謡曲「定家葛」もこの文脈を踏まえており、彼女を恋の妄執の呪縛から逃れられない悲劇の女性として描いています。

しかし本当にそうでしょうか。再三述べていますが、和歌とは虚構の文学であり、式子のこの激白でさえ本心である確証はまるでないのです。
じつのところ百人一首歌が採られた新古今和歌集には「百首歌の中に忍ぶる恋を」と詞書があり題詠であることは明白。そもそも「忍ぶ恋」はいわゆる和歌の恋における「男歌」であって、式子は男の心情になりきって見事に悲劇を描き上げたのでした。「絶え」、「ながらふ」、「弱わる」という縁語(「緒」)のオンパレードは彼女のテクニックの見せ場であったことでしょう。

式子は斎院の任期中も宮中との交流を積極的に行い和歌の腕を研鑽、藤原俊成を師と仰ぎ百首歌を何度も詠進しました。俊成の歌論「古来風躰抄」も式子の求めにおうじて書かれたものだったのです。ようするに式子内親王もまた歌の道をまっすぐ生きた歌人であったのです。

彼女の歌からは一般的にイメージされるような暗鬱はほとんど感じられません。むしろ色と光に溢れた眩い世界※で溢れています。百人一首は非常に便利なベストアルバムではありますが、ただ一首のみで歌人の人格を定めてしまうのは非常に残念というかもったいないことです。

※「山ふかみ春ともしらぬ松の戸に絶え絶えかかる雪の玉水」(式子内親王)
※「ほととぎすその神山の旅枕ほのかたらひし空ぞ忘れぬ」(式子内親王)

(書き手:和歌DJうっちー)

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