吉野といえば雪? 桜? 和歌で吉野山の歴史を知る

和歌に歌枕は数えきれないほどありますが、詠まれた回数でもそして歴史的にも最重要といえばここではないでしょうか? 「吉野」です。

現在、吉野山といえば世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一角としてその名が知られますが、知名度の面では高野山または熊野三山の方が上かもしれませんね。しかし古典ことに和歌に関して言うと、先の二山はほとんど目も向けられず、吉野山の存在が圧倒的です。

吉野は古代から今に至るまで、山岳信仰の地として尊ばれてきました。ただ日本最古の歌集、万葉集で詠まれる姿は若干様子が異なります。

万921「万代に見ども飽かめやみ吉野のたぎつ河内の大宮所」(笠金村)
万1006「神代より吉野の宮にあり通ひ高知らせるは山川をよみ」(山部赤人)

このように奈良朝の時代には、吉野は遊興、遊猟いわば別荘の地であり、時の天皇らが度々行幸しては随行の宮廷歌人が歌を残しています。取り上げた金村、赤人の歌は典型的な「土地褒め歌」、ようするに吉野の山そして川は素晴らしい!! と奉る歌です。

また、万葉の吉野といえば外せない歌があります。
万27「よき人の よしとよく見て よしと言ひし 吉野よく見よ よき人よく見つ」(天武天皇)

まるで早口言葉ですが、歴史的にも非常に意味がある天武天皇の御製歌です。詞書には「八年己卯五月(六七九年五月五日)吉野宮ニ幸」とあり、この時天武は後継となる草壁皇子らいわゆる六皇子を伴って吉野に行幸し、草壁を次期天皇として異母兄弟同士で協力し合うことを約束させました。(吉野の盟約)

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天武天皇といえば兄である天智天皇の実子大友皇子と後継者争いの内乱(壬申の乱)で王座を勝ち取った人物、またその乱を決起したのがこの吉野の地でありました。天武にとって、吉野の地で息子たちに盟約を結ばせることは非常に意味があることだったのです。

さて、時代が下り都が山城の地に移ると別荘地としての吉野は下火になっていきます。しかし万葉のころからの憧れは廃れることがなく、平安の宮廷歌人たちも吉野を盛んに歌に詠みました。

3「春霞たてるやいづこみ吉野の吉野の山に雪はふりつつ」(よみ人知らず)
332「朝ぼらけ有明の月と見るまでに吉野の里に降れる白雪」(坂上是則)
327「み吉野の山の白雪ふみわけて入りにし人のおとづれもせぬ」(壬生忠岑)

これらは古今和歌集に採られた歌ですが、パッと見て分かるように吉野は雪の名所として認知されています。一般的な和歌の知識では、吉野といえば「桜」というイメージが強いかもしれませんが、平安の前期においては吉野といえば完全に「雪」だったのです。

それが平安中期、後拾遺集くらいになると…

後拾121「吉野山八重たつ峯の白雲にかさねてみゆる花桜かな」(藤原清家)

「遠山桜」という題で、白雲に見立てた吉野の桜が詠まれています。
これには歴史的背景があります。平安時代、吉野は山岳信仰としての色を強め多くの修験者が集まるようになりました。ほどなく役行者が金峯山寺を開くに際して、桜の木に感得した蔵王権現を彫って本尊としたのです。これによって桜は御神木として保護され相次ぐ寄進を受けるようになり、下千本、中千本、上千本、奥千本と吉野を覆う千本桜へと発展したのです。

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そして平安も末期になると、吉野といえば「桜」という連想の歌が圧倒的になります。新古今集にある吉野桜が美しい名歌をご紹介しましょう。

新86「吉野山こぞの枝折の道かへてまだ見ぬかたの花を訪ねむ」(西行)
新133「み吉野の高嶺の桜散りにけりあらしも白き春の曙」(後鳥羽院)
新147「吉野山花の古里あと絶えてむなしき枝に春風ぞ吹く」(藤原良経)

ちなみに新古今集において「雪」の吉野はほとんど絶滅危惧状態、辛うじて数首見えるのみです。

新588「吉野山かきくもり雪降れば麓の里うちしぐれつつ」(俊恵)

というわけで、和歌史的に吉野イコール桜が定番となった時代に、静御前が詠んだ歌はレアだったかもしれませんね。人形浄瑠璃で有名な「義経千本桜」です。

「吉野山峰の白雪ふみわけて入りにし人の跡ぞ恋しき」(静御前)

タイトルに千本桜とあるのにかかわらず吉野の雪が歌われていますが、実はこれ先述した古今集の忠岑歌の本歌取りなのです。静は吉野山で最愛の源義経と今生の別れを遂げた後、鎌倉方に捉えられて宿敵頼朝の前で舞を披露します。歌はその時の絶唱、雪に残る足跡に二度と会えぬ人の面影を重ねました。

では最後に、吉野が歴史という表舞台でクライマックスを迎えたころの歌をご紹介しましょう。後醍醐天皇によって朝廷(南朝)が建てられた南北朝時代です。建武の新政に失敗した後醍醐天皇は吉野に移り、京(北朝)と別になんと吉野山に朝廷を起こしました。
そこで後醍醐天皇が詠んだとされる歌がこちら。

新葉83「ここにても雲井の桜咲きにけりただ仮そめの宿と思ふに」(後醍醐天皇)

新葉和歌集は南朝歌壇の歌が集められた准勅撰和歌集、後醍醐天皇の皇子宗良親王によって編まれました。後亀山天皇による南北朝合一まで「仮初めの宿」は六十年弱続くことになります。

以上、駆け足となりましたが吉野の歌をご紹介しました。僅かな歌でしたが吉野が和歌史においてはもちろん、日本文化・歴史的にも重要な場所であることがお分かり頂けたと思います。

歌を愛する御仁にぜひお薦めしたい歌枕、それが吉野です。

(書き手:歌僧 内田圓学)

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