新古今歌とはシュルレアリスムであった

「新古今和歌集」、繊細な言葉の芸術品と評されるこの歌集の魅力いや「魔力」はいったい何だろうか? 今まで各著いろいろな解説を目にしてきました。「象徴的」、「絵画的」このような言葉でこれを読み解こうとしますが、いずれも腑に落ちないものばかり。

確かに万葉集や古今集には当たり前にある人間の感情が、新古今の歌には素直に認められません。だからそこで詠まれた風景は「象徴的」であり「絵画的」であるとは思います。しかしその風景は何を象徴しているのだろう、何を描こうとしているのだろう。そのように考えると答えはいつまでも見つからないのです。

例えば、
「春の夜の夢の浮き橋途絶えして嶺に分かるる横雲の空」(藤原定家)
「うちしめり菖蒲ぞかをるほととぎすなくや五月の雨の夕暮れ」(藤原良経)
「秋かぜの袖にふきまく峰の雲を翼にかけて雁もなくなり」(藤原家隆)

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いずれの歌も詠み人の感情を形容する語はもちろん、「思う」などの動詞さえもない感情の欠如した純客観の歌です。かといってこれらが「写生歌」でないことも明白、新古今歌人たちはいったい何を表現したかったのでしょうか?

この謎が私にはようやく解けました。

「風景」と「言葉」。本来無機質であるはずのオブジェクトは、和歌に詠まれることである類型的な物語を含むようになりました、歌語です。

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「夢」、「ほととぎす」、「袖」…… これらは和歌に詠まれることで、それを共有する読者に特有のイメージを抱かせます。そしてこの組み合わせ(配合)によって、歌は思いもよらぬイメージを表象させる、そう新古今とはシュルレアリスムだったのです。前述の通り、新古今歌で詠まれるモチーフに珍しいものは全くありません。しかしこれらの組み合わせによって見たこともない世界が描きだせる、それを新古今歌人らは発見し試みたのです。

「春の夜の夢」と「横雲の空」、「菖蒲の香り」と「ほととぎす」、「秋風の袖」と「峰の雁」。デペイズマン、平凡な風景のイメージを重ねることで真新しい世界を表象する。新古今の新風が耽美一辺倒ではなく、冒頭で述べた魔力というような奇妙な違和感や驚異の感情を抱くのもこうした理由からだったのです。

ただ20世紀のフランス人と違うところは、新古今歌人らはオブジェクトの配合を和歌的近似に留めたこと、だから辛うじて歴々の勅撰集との繋がりも保ちました。

思えば先ほどの定家の歌、もはや白昼夢の茫漠ではありませんか。シュルレアリスト達は無意識の世界を最も重んじましたが、根源的なところで新古今歌人とシュルレアリストは相通じているのかもしれません。ですから定家の歌も本歌取りといった意識下のテクニックで作られたものではなく、ふいに口に出たあくまでも言葉のコラージュであったのです。

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ということで新古今歌は詠み人の感情なんてなくて当たり前、明確な鑑賞の答えもなくて当たり前だったのです。そう思ってしまえば意味不明瞭の新古今歌に出会ってもビビる必要はありませんね。

さて、ではそのような歌集の価値はいったいどこにあるのでしょう? ブルトンやマグリットらシュルレアリストが行動に至ったような主義主張が新古今歌人にないとすれば、極論すると新古今の価値は「新しさ」だけかもしれません。当の定家本人が自らの地位が安定するほどに新古今から離れ、古今集の歴史伝統と感情を重んじるようになるんですから。

しかしそれでも新古今和歌集、魔力が絶えるということはありません。何度鑑賞しても感情を揺さぶられる、これは作品として見事に完成しているということ、そしてそんな歌が何首も連なっているんですから。

(書き手:和歌DJうっちー)

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