万葉集の引力! 柿本人麻呂の挽歌と六皇子

万葉集とは玉石混交の歌集、以前このようにまとめました。
しかしこのカオスをひと所に留めるには、何らかの引力が必要です。
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万葉集をひとつの歌集たらしめる引力、それは「柿本人麻呂」という偉大な歌の聖の存在であり、かつ当時の六皇子との交わりにおいて生まれた、神がかった歌の力なのです。

万葉集4500首の中でも、歌のピークはなんといっても持統朝の時代です。
柿本人麻呂は持統朝に宮廷歌人として仕え、行幸や慶弔の折に歌を詠みました。巻一、二には彼の優れた長短歌が見えますが、やはり胸を打つのが六皇子らにまつわる歌とくに挽歌です。
六皇子とは天智天皇と弟天武天皇の子である、「志貴皇子」「川島皇子」「草壁皇子」「大津皇子」「高市皇子」「忍壁皇子」の六人です。

「吉野の盟約」をご存知でしょうか?
天智天皇亡き後の679年、天武天皇と六皇子は吉野へ行幸します。そこで次期天皇を「草壁皇子」にすることで共々結束しました。天武天皇は「壬申の乱」という未曽有の後継者争いを当事者として経験しています。父も母も違う六皇子の結束こそが、大和の安定には不可欠だと考えたのです。しかしこの吉野の盟約がまた、万葉のドラマを生むのでした。

六皇子のひとり「志貴皇子」は天智天皇の子です。
ということもあって、彼は端から政争とは無縁のポジションに身を置きます。そこで磨いたのが和歌でした。志貴皇子の叙景歌は万葉集にあって別格であり、古典和歌の源泉ともいうべき素晴らしさを誇っています。
1418「石ばしる 垂水の上の 早蕨の 萌え出づる春に なりにけるかも」(志貴皇子)

余談ですが後の「光仁天皇」は志貴皇子の子孫であり、ここから再び皇統が天智系に戻ります。

吉野の盟約を破る人物が現れます、「大津皇子」です。
彼の父は天武天皇そして母は持統天皇の姉の大田皇女という、血統的には草壁皇子と遜色ありません。しかし川島皇子に謀反の意ありと密告され、自害に追い込まれるのでした。本当に謀反の意があったのか、真実は闇の中です。
下は姉の大来皇女が捧げた挽歌です。
「神風の 伊勢の国にも あらましを なにしか来けむ 君もあらなくに」(大来皇女)

ここまで肝心の柿本人麻呂の歌が出ていませんね。
先の大津皇子を密告した人物が六皇子にいます、それが「川島皇子」であると言われています。人麻呂は残された妻泊瀬部皇女に捧げる挽歌を残しています。皇女のむなしき行く末を案じるかのような歌です。
195「敷布の 袖交へし君 玉垂の 越智野に過ぎぬ またも逢はめやも」(柿本人麻呂)

人麻呂の最も長い挽歌は「高市皇子」に捧げたものです、その反歌をご紹介しましょう。
200「久かたの 天知らしぬる 君故に 日月も知らに 恋ひわたるかも」(柿本人麻呂)

高市皇子は皇族・臣下の筆頭(太政大臣)となって持統朝を支えました。人麻呂の歌からは、死して天の国を治める皇子への敬愛が伝わってきます。

そして後継者に指名された「草壁皇子」。
ところでなぜ、彼が他の皇子を差し置いて後継者に指名されたのでしょうか? それは持統天皇の子であったからです、持統天皇はなんとしても我が子を次期天皇としその血脈を絶やさぬようつとめました。
しかし! 将来を有望された皇子は28歳という若さで早世してしまうのでした、即位することなく…

柿本人麻呂が草壁皇子へ捧げた挽歌は、万葉集の中でも最も格調高く響きます。
168「久かたの 天見るごとく 仰見し 皇子の御門の 荒れまく惜しも」(柿本人麻呂)
169「あかねさす 日は照らせれど ぬば玉の 夜渡る月の 隠らく惜しも」(柿本人麻呂)

今回は反歌二首をご紹介しましたが、ぜひその長歌をご鑑賞ください。

さて、後継者である草壁皇子が亡くなってどうしたか?
持統天皇はその子「軽皇子(文武天皇)」をその座に据えたのでした。

軽皇子の遊猟の際に人麻呂が詠んだ歌が残っています。これは有名ですよね。
48「ひむがしの 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ」(柿本人麻呂)

東の朝日と西の月、万葉集らしい雄大な歌だと言われますが、次の一首をみれば印象がまた変わります。

49「日並しの 皇子の命の 馬なめて 御狩立たしし 時は来向ふ」(柿本人麻呂)
当時にあって日は軽皇子、それに並ぶのは亡き草壁皇子です。つまり東からはいよいよ軽皇子が昇り、一方で草壁皇子は西へ沈みゆく。新しい世代への待望と亡き皇子への哀傷が込められた感慨の絶唱歌だったのです。

軽皇子(文武天皇)は無事に即位し、退位して後は「元明天皇」「元正天皇」と草壁皇子の娘、后が次々即位しました。持統天皇は見事、天武系の皇統を守ったのです。
※しかし「光仁天皇」から再び天智系に戻ったのは先述のとおりです

柿本人麻呂は自身の妻への挽歌も残しこれもまた優れて感嘆を誘うのですが、万葉集歌のほとんどが歌われた飛鳥、奈良時代を想うとき、ご紹介した持統朝の六皇子との関りにおいて詠まれた人麻呂による一握りの挽歌がこの歌集の根幹を成しており、これらの圧倒的な格調や風雅が玉石混交の石の入る余地を生んだのだと思います。

万葉集の実質的編纂者とされる大伴家持は下の言葉を残ています。

「幼年未逕山柿之門」
万葉集十七巻

ここでの「柿」はもちろん柿本人麻呂、万葉後期歌人の家持にあって、すでに人麻呂は歌の聖であったのです。

人麻呂が時の為政者を讃えるとき、必ず大和の自然を高らかに添えて風雅な錦絵のごとき叙景を詠みました。
この格調こそ家持も理想としたのでしょう、しかし人麻呂に達したのは後にも先にも柿本人麻呂ただ一人だったのです。だからこそ、彼は歴代の歌の聖であるのです。

万葉集が注目される今、私たちは柿本人麻呂という歌人に、一段の憧憬を寄せねばなりません。
→関連記事「柿本人麻呂 ~みんなの憧れ、聖☆歌人~

(書き手:和歌DJうっちー)

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