梅か枝に降りつむ雪はひととせに再び咲ける花かとぞ見る(藤原公任)

その名が期待感を煽るが今日も無念、凡作に沈んでしまった… 藤原公任である。「雪」を「花」とする見立ては悪くない、いや確かに平凡の極みなのだが、このルーチンこそが和歌であることはもうご承知だろう。問題のひとつは歌の「調子」...

梅の香の降りおける雪にまがひせは誰かことごと分きて折らまし(紀貫之)

今日あたり二十四節季では「大寒」の時分だろう。寒さが最も厳しくなるころとされるが、実のところ春(立春)はもう目の前である。詠み人は紀貫之、一昨日の歌は雪を花と見る妄想であったが、今日のは早咲きの梅が確かに綻んでいる。『梅...

雪ふれば木ごとに花ぞ咲きにけるいづれを梅とわきて折らまし(紀友則)

このような歌を「呆あきれ返つた無趣味」と蔑もう、明治の自称革新的な歌人たちは。そのまま取ると『木々に雪が降って、梅の花と見分けがつかない』という趣向だが、狙いは「木」と「毎(ごと)」つまり偏と旁を合わせて「梅」が咲くとい...

雪ふれば冬ごもりせる草も木も春に知られぬ花ぞ咲きける(紀貫之)

さて、今日の歌ではまたもや雪が降っている。雪歌は一通り終えたのではと思うかもしれないが、今日よりの雪は以前のそれではない。『草や木々が冬ごもりしている折、雪が降って春も知らない花が咲いた!』。春を慕うばかり、詠み人の目に...

星清き夜半の薄雪そら晴れて吹きとほす風を梢にぞきく(伏見院)

京極派の歌は今でも新鮮な聞き心地がする、それは描いた風景もさることながら用いた単語に由る。昨日の「三日月」しかり今日の「星」もその一つだ。これまた驚かれるかもしれないが京極派が現れる以前、和歌に詠まれる天体といえば「月」...

雲居より散りくる雪はひさかたの月の桂の花にやあるらむ(藤原清輔)

『雲の果てから散ってくる雪は、月にあるという桂の木の花ではあるまいか』。雪を花びらに見立て次の季節を慕うのは、伝統の域を出ないつまらぬ詠みぶりと言えよう。しかしフォービズムよろしく、狂言綺語で迫りくる御子左一派の歌にはな...

冬枯れの森の朽葉の霜の上に落ちたる月の影の寒けさ(藤原清輔)

家隆そして俊成卿女を見た後ではいささか物足りなくもあろう、藤原清輔の冬の月である。新風甚だしい新古今歌人らは度を過ぎて酷寒の大景を求めたが、清輔はというと月、その美しさのみに焦点を絞って繊細なワンカットを写し取る。なるほ...

志賀の浦や遠ざかりゆく浪間より凍りていづる有明の月(藤原家隆)

地獄には八寒地獄という冷徹で恐ろしい世界があるという。そんな恐怖を覚えるほど、今日の歌には結氷の極みが描かれている。『夜が冷徹に更けゆく志賀の浦では、浪が凍りついて沖へと遠ざかってゆく。その氷の間から、凍りながら有明の月...

和歌の本性「一期一会と悪あがきの爪痕」

和歌とは「一期一会」の感動、それに尽きる。 人はなべて冷酷な世界を生きている、永遠に止まない「時間」という絶対王に支配された世界だ。ここで人は生まれ落ちた刹那、全員が死という逃れられない運命に向けて行軍する。足を止めるこ...