【百人一首の物語】六十五番「恨みわびほさぬ袖だにあるものを恋にくちなむ名こそおしけれ」(相模)

六十五番「恨みわびほさぬ袖だにあるものを恋に朽ちなむ名こそ惜しけれ」(相模)

「生老病死」、これらは人生に横たわる恐怖の根源といえるものですが、それにもまして平安貴族が恐れたものがあります。なにか? それは“人のうわさ”です。華やかかりし貴族の世界、などといってもしょせんは金をかけた蛸壺。なにせ宮中を構成するメンバーのほとんどが血のつながりのある身内であったのですらね。これが平安時代の平安たる理由ではあったのですが、そんな貴族たちの関心はもっぱら蛸壺のなかの人事ということになります。そこでは他人の、さらに言えば“悪いうわさ”なんてのはかっこうの酒の肴であり、逆にこの肴になってしまえば蛸壺のなかで嘲笑され、最悪は居場所さえも失ってしまうのです。貴族社会の“うわさ”の怖さがお分かりいただけたでしょう。

うわさの中でも、まあこれは今も昔も変わりませんが、とくに男女の“恋のうわさ”なんてのには誰しも敏感で、だからこそ当事者としてはなんとしても隠したいという強い動機が生じます。「忍ぶ恋」なんてのが美徳とされたのはこんな理由からでしょう。ですから和歌の「恋」には、どうあってもうわさになりたくないという、切実な思い※1,2,3が多く詠まれていたりします。

この六十五番歌も、“噂になること”へのあからさまな恐怖心ですよね。「恨んで恨んで、今や恨む気力もなくなって(涙で)乾かすひまもない袖、それさえも惜しいのに、あんたとの関係が表沙汰になって、わたしの悪い評判が知れ渡ってしまうのが本当に口惜しい」。詠み人は相模、六十四番の定頼との恋愛でも知られますが、歌は自身五十歳を越えての題詠でした。するとなるほど、宮中の酸いも甘いも思い知った女性の重みのある一首です。

※1 「君が名も我が名も立てじ難波なるみつとも言ふなあびきとも言わじ」(よみ人知らず)
※2 「吉野河水の心ははやくとも滝の音には立てじとぞ思ふ」(よみ人知らず )
※3 「恋しくは下にを思へ紫のねずりの衣色に出づなゆめ」(よみ人知らず )

(書き手:歌僧 内田圓学)

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