【百人一首の物語】七十六番「わたの原こぎ出でてみればひさかたの雲居にまがふ沖つ白波」(法性寺入道前関白太政大臣)

七十六番「わたの原こぎ出でてみればひさかたの雲居にまがふ沖つ白波」(法性寺入道前関白太政大臣)

定家とはじつに意地の悪い人間のようです。前の七十五番でご紹介した“あはれな男”の次に、その当事者たるボスの藤原忠通(法性寺入道前関白太政大臣)を持ってきました。

忠通はその名のように時の摂政関白ですが、これを鳥羽天皇から四代にわたって離さなかったのですから並の権力者ではありません。忠通がその座にいた時代は激動の真っ只中でした。すでに政治の舞台では平家が台頭し摂政関白なんてのもほとんど形骸化、身内同士の争いも表面化して「保元の乱」では父(忠実)・弟(頼長)とも対立、そんな前代未聞の乱世にあって忠通は対抗勢力である鳥羽法皇や平氏の院政勢力と巧みに結びつきなんとかその座を保ったのです。

ちなみに保元の乱は忠通の策略によるものだった、なんて説もあったりします。 忠通の子孫がいわゆる五摂家として立ち以後明治維新まで摂政関白の座を独占していくのですが、忠通のような冷徹な策士なくしては、藤原氏の血なんてのはとっくに表舞台から消えていたことでしょうね。

彼の百人一首歌は採られた「詞花集」によると、崇徳天皇の御前で詠んだ歌でした。

「大海原に漕ぎ出して見渡すと、おお! 雲とみまがうばかりに沖には白波が立っている」

「海上遠望」という題ですがいかがでしょう、見事御前にふさわしい晴れやかで雄大な歌ではないでしょうか。小野篁の十一番歌を念頭に置いて詠まれたともいわれますが、いずれにしても百人一首歌にありがちな湿っぽさがまったくない、気持ちいいまでの晴れ晴れしさです。まあこれくらいの心の広さがある人間でないと、魑魅魍魎が抜港する平安末期の朝廷を生き抜いてはいけなかったのかもしれませんね。

さて話を戻すと“定家の意地の悪さ”です。七十五番の藤原基俊ですが、彼は晩年に藤原俊成を歌の弟子にむかえます。ですから息子たる定家とも浅からぬ縁があったのだと思うのですが、じつのところ定家は父の師匠たる基俊をほとんど重んじていません。歌壇におけるライバルであった源俊頼が革新的歌風を目指したのに対し、基俊は旧態依然した歌風を変えなかったといいますから、歌の革新に邁進した定家としては評価に値しなかったのかもしれませんね。
それにしてもこのような小粒歌人の基俊と傑物たる忠通とのエピソードをわざわざ百人一首に採って、かつご丁寧に前後に並べるのですから、これを意地悪といわずしてなんというべきかです。

(書き手:歌僧 内田圓学)

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