【百人一首の物語】七十二番「音に聞く高師の浜のあだ波はかけじや袖のぬれもこそすれ」(祐子内親王家紀伊)

七十二番「音に聞く高師の浜のあだ波はかけじや袖のぬれもこそすれ」(祐子内親王家紀伊)

詠み人は祐子内親王家紀伊、名前の冠が長いほど偉いのが男性でしたが、女房の場合はたんに所属が記されているだけです。ただ前代までは清少納言とか紫式部とか、名前が実家に故していましたよね。これが紀伊の「祐子内親王」は仕えた主の名で、以後、八十番の「待賢門院堀川」も八十八番「皇嘉門院別当」も同様ですから、このころから女房の命名ルールが変わっていったことがわかります。ちなみにこれでいくと例の多情の女歌人は“上東門院和泉”なんてことになりそうです。

さて、歌はなかなか技巧的です。詠まれたのは「堀河院御時艶書合」、これは男女に分かれて恋歌の優劣を競うという歌合でした。そこで番(つがい)となった男性歌人の歌がこちら。

「人しれぬ思ひありその浦風に波のよるこそ言はまほしけれ」(藤原俊忠)

「私は人知れぬ恋をしています。荒磯の浦風で波が寄るように、夜になったらお話ししたいなぁ」。
これ対し紀伊は「荒磯の浦」に「師の浜」で対応し、「浦」「波」「寄る」の縁語に「浜」「波」「濡る」と見事に応えました。それでいて女歌らしい“拒絶の返答”も成立させているんですから、これを手練れといわずなんと言うでしょう。
ちなみにこの歌合の時、紀伊の年齢は七十歳前後だったといいます。酸いも甘いも噛み分けた、恋歌の大師範による手本のような返歌であったわけですね。

ところでさらりと流してしまいましたが、紀伊と合わせられた藤原俊忠、なんと定家の祖父であり、彼ら御子左家の祖でもある人物! なのですが、定家は百人一首に採りもせず、このようなごく間接的なかたちで名前がみえるのは少し不思議な感じです。

さて、それにしても男女に分かれて恋歌を詠み合うなんて、現代でもやってみたい痛快な企画だと思いませんか。主催者である「堀河院」はほかにも組題百首の先鞭となる「堀河百首」を催したりと、後世に多大な影響を残した大プロデューサー。ただ勅撰集の入集は少なく、百人一首にも採られていないということで歌人としてはほとんど知られていません。それでも和歌ファンなら知っておきたい、和歌史におけるキーパーソンです。

(書き手:歌僧 内田圓学)

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