【百人一首の物語】六十九番「嵐吹く三室の山のもみぢ葉は竜田の川の錦なりけり」能因法師

六十九番「嵐吹く三室の山のもみぢ葉は竜田の川の錦なりけり」能因法師

百人一首には十番の蝉丸も勘定に入れると、坊主が十三人採られています。一口に坊主といってもいろんな人がいて、かつての大貴族が出家してそのまま大僧正とか偉い坊さんになった人、山に籠って命がけの修行をした人、かたや旅回りしていろんな土地で歌を詠んだ人。能因はこのうち最後のタイプで、遊行しながらたくさんの歌を詠んだ、西行や芭蕉の先輩にあたる歌人です。

能因は俗名を橘永愷(ながやす)といい大学寮で詩や歴史を学ぶ学生でした。それが二十代も中ごろに出家してしまいます。その理由はむなしき世を厭んで… ではなく、歌に詠まれた憧れの「歌枕」を訪ね歩くことだった! のかもしれません。 
能因は津々浦々をめぐっています。三重に和歌山、汗を流して岡山、岐阜、静岡、気合を入れて愛媛、命を懸けて福島、宮城、岩手と遊行にかこつけて歌をいろんな土地で歌を詠みました。なかでも陸奥はお気に入りだったようで、はるか遠方にかかわらず生涯に二度も訪れています。じつのところ「東歌」で歌われた陸奥は、平安歌人にとってまさに風雅の理想郷、いわばオリエンタリズムの象徴であったのです。

「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」(能因)

都を後にしたのは霞立つ春のころ、ついに秋風が吹く今、白河の関(福島)にたどり着いた。ここを越えれば、そこはあこがれの地、陸奥だ~! 感涙のこもった歌は能因の代表歌となりました。

ところで能因を語るうえで欠かせないのが、数寄者としてのエピソードです。数寄者とはようするに「マニア」のことなのですが、能因はこの典型で歌狂いが知れるユニークな逸話が残っています。
先の「白河の関」の歌も、じつのところは京の都で詠んだなんていう噂(古今著聞集)もあったりします。「陸奥へ遊行する!」とみなの前で豪語したものの、なぜかそのまま都に身を隠して日焼け、しばらくして、さも長旅をしてきたような黒々とした体でこの歌を披露したというのです。ほかにも歌枕を愛しすぎて、「長柄の橋」のかんな屑を自慢げに持ち歩いていたというエピソードも。普通の人間からすればただのゴミが、数寄者たる能因には貴重なお宝であったわけですね。
西行や芭蕉はその歌に、その旅に漂泊者たる切迫感が宿っていたりしますが、これがほとんど感じられないのが、逆に能因の魅力だったりします。

能因が非凡でなかったのがたんに歌枕をめぐったというだけでなく、これをみずから分類し「能因歌枕」としてまとめたということ。この仕事は後世の歌人に多大な知識をもたらしました。

さて肝心の百人一首歌ですが、これは期待に反してまったくの凡作です。
「もみじ」を「錦」に見立てるところなど、常套中の常套。三代集ならまだしも、これが後拾遺集に採られた歌だというのだから、題詠とはいえ和歌はいよいよ末期症状を迎えています。定家も百人一首に わざわざこれを採ったわけですが、和歌史における反面教師を示したんでしょうか? そうでなければ十七番、二十六番との類似はひどいものがあります。
「三室の山」と「竜田の川」を対比させたのは歌人の技ですが、それでも数寄者能因の個性が少しでも伝わる歌を採ってほしかったです。

(書き手:歌僧 内田圓学)

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