七十四番「憂かりける人を初瀬の山おろしよはげしかれとは祈らぬものを」(源俊頼朝臣)
源俊頼は七十一番の源経信を父に持ち、子に八十五番の俊恵がいます。百人一首に親子ペアは相当数(18組)ありますが、親、子、孫と三代で採られているのはこの経信、俊頼、俊恵のみです。ちなみにこの家を「六条源家」といって、歌道の家の先駆けのような存在です。ちなみに七十九番の顕輔、八十四番の清輔に連なるのを「六条藤家」、八十三番の俊成、九十七番の定家に連なる歌の家を「御子左家」といいます。和歌史的にはこれら家々の論争が面白いですから、ぜひ覚えておきましょう。
さて源俊頼といえば、院政期の歌壇の中心的人物です。第五番目の勅撰集「金葉和歌集」の撰者を務め、のちの歌風に大きな影響を与えた歌論書「俊頼髄脳」を記すなど、当代一の歌人として名を馳せました。
さぞや順風たる歌人人生と思いきや、俊頼はその人生の大半を晴れぬ苦悩とともに過ごすのです。その最たるが…
「詠みのこしたる節もなく、つづけもせる詞もみえず。いかにしてかは、末の世の人の、めづらしき様にもとりなすべき…」(俊頼髄脳)
古今集が成立して、すでに二百余年の時が過ぎようとしていました。古今集は和歌の類型化を成し遂げましたが、以後の和歌はその類型によって量産され、俊頼の時代にはすでに退屈な文芸になりかけていたのです。
彼の苦悩の根源は和歌を後世に伝わる偉大な文芸にすべく、いかに新しく蘇らせるかでありました。そこで俊頼はかつて詠まれなかった景物や口語の導入にはじまり、言葉による人為的な美の創造を目指してさまざな実験的アプローチを試みたのです。
「さまざまに心ぞとまる宮城野の花のいろいろ虫のこゑこゑ」(源俊頼)
このような下句のオノマトペは、俊頼ではくては詠めないものでしょう。
しかし俊頼の「清新奇抜」の歌風に対する評価は、かならずしも高いものではありませんでした。とくに彼が編纂した金葉集などは「軽々しい歌が多い※1」なんて言われる始末。でも俊頼のこの挑戦がなければ、次時代に完成される新風「新古今歌風」もなかったとことでしょうし、そのように考えると、俊頼を軽んじることは決してできません。
さて俊頼の百人一首歌ですが、この歌も彼らしい新奇性が見て取れます。
「叶わぬ恋に悩み、思う人が私に靡くように初瀬の観音にお祈りをしたら、靡くどころか冷たい風が激しく打ちつけてきた!」
私としてはまずコントのようなオチに惹かれるのですが、ともかくも「初瀬」です。「初瀬」という歌枕は、基本的に貫之が三十五番2※で歌に詠んで以来、花の名所として詠まれることが通例※3でした。しかし俊頼は初瀬の「山おろし」を詠んだのです。これは和歌史の文脈から見れば類型への挑戦であり、まさに「めずらしき様」の表われであったのです。俊頼の挑戦と苦悩がうかがい知れる、大切な一首です。
※1「金葉は、また、わざともをかしからんとして、軽々なる歌多かり」(無名抄)
※2 詞書『初瀬に詣づるごとに宿りける人の家に…』
「人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける」(紀貫之)
※3「初瀬山くもゐに花の咲きぬれば天の川波たつかとぞ見る」(大江匡房)
(書き手:歌僧 内田圓学)
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