七十七番「瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ」(崇徳院)
平安末期の激動のそのど真ん中にいたのがこの崇徳院です。皇室、摂関家そして武家勢力入り乱れての内乱、「保元の乱(1156年)」で前の七十六番忠通は勝者の側にいましたが、無念、崇徳院は敗者となり讃岐に流されて、二度と戻ることは許されませんでした。しかも院の死後に後白河天皇の身内に不幸が続いたことから、崇徳院は「怨霊」になったとされて、人々は忌み恐れられる存在になってしまうのです。
(「保元物語」には崇徳院が「日本国の大魔縁となり皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向す」と血で書き記すさまが描かれています)
そんなことで崇徳院を語るさいには必ず“悲劇”がつきまとってしまいます。この百人一首歌もついついその文脈で理解してやしませんか? ようするに「われても末にあはむとぞ思ふ」というのは、「父のぬくもり」であり「わが子(重仁親王)の幸福」であり、「遠きふるさと」であるというような解釈です。
ですがこれまで何度もお話ししたように 和歌の作中主体と作者は必ずしも一致するわけではありません。崇徳院の一首にさまざまな妄想を抱くのは自由ですが、じつのところ本人の実情など微塵もない可能性だってあるのです。まあそれでも先のように解釈したいという、気持ちはわかりますけどね。
この百人一首歌は「久安百首」に採られた恋の歌です。久安百首は崇徳院の自身の命により十四名の歌人が詠進した百首歌で、久安六年(1150年)までに成立したようです。ちなみにこのメンバーには藤原顕輔、清輔、俊成や待賢門院堀河そして平忠盛と、当時の名だたる歌人が参加しました。
父の鳥羽院は和歌にほとんど関心を寄せていませんが、その反動か当てつけか、崇徳院は非常に熱心に和歌活動に取り組みました、第六番目の勅撰集「詞花和歌集」も院の命によるものです。
ちなみに久安百首では「ゆきなやみ岩にせかるる谷川のわれても末にあはむとぞ思ふ」としていたものを、詞花和歌集に載せる際に自らの手で「瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ」に改作したといいます。たしかに「瀬をはやみ」「滝川」としたほうが、より切迫感のある序詞になりますね。
おそらく定家もこの一首に悲壮な調べを強く感じとり、意味深な歌として百人一首に採ったのかもしれません。
(書き手:歌僧 内田圓学)
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