大伴家持 ~流浪の人、家持たぬ家持の万葉オシャレ歌~

万葉集を代表する歌人と言えば? 歌の聖「柿本人麻呂」や「山部赤人」、筑紫歌壇の双璧「大伴旅人」や「山上憶良」らの名も挙げられるかもしれませんね。しかし、ナンバーワンはやはりこの人ではないでしょうか、「大伴家持」です。万葉集にはおよそ4500首の歌が収められていますが、なんとこの約一割、473首が家持の歌なのです。

(このため家持は万葉集の実質的な編纂者であると目されており、折口信夫は、旧都(奈良)への憧れ強い「平城天皇」が、家持収集の“大伴家歌集”を手に入れたのを機会に万葉集を企てた、と論じました)

ちなみに万葉集には家持の父「旅人」をはじめ、兄弟の「書持」、叔母の「大伴坂上郎女」、その娘で妻の「大伴坂上大嬢」、叔父の「田主」のほか「池主」などなど、大伴一族の面々が多数登場します。大伴ファミリー全体の集歌数はおよそ700首強といわれますから、この存在感は推して知るべしです。

大伴氏は大和朝廷以来の武門で、家持も従三位・中納言に登るなど、そこそこの高級官吏でした。しかしです、われわれの想像に反して家持には家がありません! いや、もちろんこれは譬えなのですが、家持は生涯流浪の人で、父旅人に同行した大宰府をはじめに、多くの名歌を生んだ越中、因幡、薩摩、再び大宰府、相模、陸奥と… 定住する家がないまま、地方官として日本の津々浦々を渡り歩いたのです。

家持が生きた8世紀後半は氏族間の小競り合いがまだまだ活発な時代でした。「橘奈良麻呂の変」(757年)、「藤原良継による仲麻呂暗殺計画」(763年)、「氷上川継の乱」(782年)、「藤原種継暗殺事件」(785年)と、官僚たる家持は望むと望まざるにかかわらず数々の政変に巻き込まれました。家持の転勤の多さは、この騒乱の敗北者たる人間の顛末であったのです。

(大伴氏は家持以後に衰退を強め、ついに「承和の変」(842年)で伴健岑が首謀者として流罪となってから五位以上のものを出すことができませんでした)

王朝歌人あるあるですが、このような悲哀の人間ほど歌を愛しそして秀歌を残します。先に家持が万葉のナンバーワン歌人としてその集歌数を理由にしましたが、それはそうだとして、家持は万葉のなかでも抜群に素晴らしい歌を詠みました。それはこの時代の人らしく大陸の匂いを強く感じさせるもので、特に「玉台新詠」の宮体(宮廷風)に彼の才能が爆発しています。実のところ、家持のこの艶なる和魂漢才の歌風は唯一無二のものなのです。

今回は流浪の詩人、大伴家持の「オシャレ」万葉歌をご紹介しましょう。

大伴家持の十首

家持のオシャレが際立つのが「春」です。

一「雪の上に 照れる月夜に 梅の花 折りて贈らむ 愛しき児もがも」(大伴家持)

なんと、一首に雪月花を詠みこんだゴージャスな歌です。

二「春の苑 紅にほふ 桃の花 下照る道に 出で立つ乙女」(大伴家持)

紅の桃と乙女… これぞ万葉の宮体(宮廷風)という歌です。これほどの艶やかな歌は後にも先にも家持にしか詠めませんでした。

三「春の野に 霞たなびき うら悲し この夕影に 鶯鳴くも」(大伴家持)
四「わが宿の いささ群竹 ふく風の 音のかそけき この夕べかも」(大伴家持)
五「うらうらに 照れる春日に ひばりあがり 心悲しも 独りし思へば」(大伴家持)

この3首に共通するのは、本来穏やかな春の情景に強い寂寥を重ねている点。もはや抒情の文学作品ですね。洗練されたこの感性は新古今に近いものがあります。ちなみにこれらを総じて「春愁三首」と評します。

六「ふりさけて 三日月見れば 一目見し 人の眉引 思ほゆるかも」(大伴家持)

三日月を一目惚れした女性の眉に喩えるなんて、なんだかエロティック… これは漢詩の発想ではありますが、家持は恋の歌も得意としていました。だからでしょうか? 家持は女性にモテモテです。万葉集巻三を見ただけでも、大伴坂上大郎女、笠郎女、山口女王、大神郎女、中臣郎女、娘子、河内百枝娘子、童女、栗田女娘子、紀郎女… と、両手でも足りないほどの女性との関係が綴られています。

七「撫子が その花にもが 朝な朝な 手に取り持ちて 恋ひぬ日なけむ」(大伴家持)

これは坂上郎女の長女であり、家持の妻であった大伴坂上大嬢に送った相聞(恋)歌です。先に数多の女性の名を挙げましたが、家持がもっとも愛したのが大伴坂上大嬢でした。

八「鶏が鳴く 東男の 妻別れ 悲しくありけむ 年の緒長み」(大伴家持)

家持は難波の地で、防人の監督に関わっていたことがあります。この時の防人・東人との出会いが万葉集の「防人歌」、「東歌」の収集につながりました。この歌では、愛しい妻と別れ遠地に赴任する東人に寄り添っています。

九「磯城島の 大和の国に あきらけき 名に負ふ伴の 男こころつとめよ」(大伴家持)

清らかな大伴の名を持つ一族の者たちよ! 決して油断するな! これは大伴ファミリーがピンチに陥った際、家持が一族の結束を高めるために詠んだ歌です。武の名門、大伴氏の誇りを強く感じますが、しかし大伴氏の行く末は先の記したとおりです。

十「かささぎの 渡せる橋に おく霜の 白きを見れば 夜ぞ更けにける」(大伴家持)

家持といえば、やはり「かささぎ」の歌。新古今集や百人一首にも採られているように、この歌は新古今歌人を魅了しました。定家、家隆、寂連なんていう名だたる歌人も本歌取りをしています。
新522「かささぎの 雲のかけはし 秋暮れて 夜半には霜や さえわたるらむ」(寂連)

家持は万葉歌人ですが、その歌はいわゆる万葉ぶり(素直で男らしい)ではありません。また万葉と古今の橋渡しをしたともいわれますが、古今風(理知的で女性的)ともちょっと違います。和歌を言葉の芸術と捉え、純然たる美を描こうとしている様は、むしろ新古今の理想に近いといえます。

最後に、万葉集二十巻を締めくくった自身の歌をご紹介しましょう。

「あらたしき 年の初めの 初春の 今日降る雪の いやしけ吉事」(大伴家持) 

この歌は万葉集巻頭を飾る雄略天皇による祝福の一首と呼応しているといわれ、家持のこの気配りによって、玉石混交の万葉集は、神を祖とする王権にふさわしい晴れやかな歌集となることができました。
詞書には「因幡の国の庁にして…」とあり、左遷されていた因幡国で詠んだ歌だとわかります。時に家持42歳、彼の生涯はその後26年生きるのですが、歌はこれを最後に残していません。

(書き手:歌僧 内田圓学)

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