西行 ~出家はつらいよ、フーテンの歌人~

西行は古今東西数多いる歌人の中で、最も愛されている歌人です。
生存中は天皇から遊女まで貴賤を問わず幅広く交友を持ち、死後は宗祇や芭蕉といった名だたる数寄者の憧憬を集めました。
「西行物語」「保元物語」「雨月物語(白峰)」などの物語や「西行桜」「遊行柳」といった謡曲にもその名を残し、日本文化史における偉大なアイコンとして今もファンが多いです。

なぜこれほどまでに、西行は愛されているのでしょうか?

西行と言えば、一途な宗教者としてのイメージが強いと思います。
武士(佐藤義清)として鳥羽院の北面に仕えていた頃から、西行は世を厭み仏道への憧れを募らせていました。
俗世の栄誉にも関心がなく、鳥羽院からの昇進の打診も断り続けるほどです。
やがて西行は友人(佐藤憲康)の死をきっかけに出家を決断します。妻子は泣いてすがりますが…

「これこそ陣の前の敵、煩悩の絆を切る初めなり」
西行日記

と言って娘を縁の下へ蹴落したのでした。

これら「西行物語」のエピソードからは確かに真面目一徹、強情な宗教者の姿が浮かびますね。

ちなみに藤原頼長の日記には、

「重代ノ勇士ナルヲモツテ法皇ニ仕フ。俗時ヨリ心ヲ仏道ニ入レ、家富ミ年若ク、心愁無キモ、遂ニ以テ遁世ス。人之ヲ歎美セルナリ」
台記

金持ちで何の憂いもない青年が突然出家して人々を感嘆させた、と記録があります。
当時からしても西行の行動は驚きを以って受け止められていたことが分かります。

また先の「西行物語」にはこんな一幕があります。
東国への旅の途中、渡し船で乗り合わせた武士に血が噴き出すほどに頭を打たれてしまった西行、
こんな侮辱を受けてもなおこう言いのけるのです、

「忍を以って敵を報ずれば、仇すなはち滅す」
西行日記

恨んではいけない、仏の御心は慈悲を先としているのだと…

立派です、立派過ぎます!
一途な宗教者という西行のイメージは間違いないようです。

一方で西行、「旅の歌人」というイメージもありますよね。
世のしがらみから自由である西行は、自らの足で憧れの歌枕へどんどん出向いていきました。
例えば吉野の桜、東国の富士、みちのくの象潟などなど、、、
都の歌人には決して詠めない、「実景の感動」を西行は心ゆくまで歌にしたのです。

また、かの後鳥羽院は「後鳥羽院御口伝」で、

「生得の歌人とおぼゆ。おぼろげの人まねびなどすべき歌にあらず。不可説の上手なり」
後鳥羽院御口伝

と西行を大絶賛!
院勅撰の「新古今和歌集」では最多94首が採られるほど、西行は歌の名手でもあったのです。

仏と歌。二つの道を真摯に求め続けた西行。
求道者としてのこの格好良さが、西行が愛される理由なのでしょうか?

いいえ、違います!
西行の魅力はむしろ「カッコ悪さ」にあるのです。

一見、西行は仏道と歌道の二つを極めたように思われているかもしれません。
しかしそんなことは全くなくて、むしろどちらとも思うようにいきませんでした。

仏道では執着を取り払うことが第一に求められます。しかし一方、歌を愛するほどに花鳥風月への執着は増していく、
つまり「仏」と「歌」の道とは二律背反、歩めば歩むほど矛盾に陥る煩悶の道だったのです!

西行はこの苦悩を素直に告白しました。
本来、和歌は伝統的な美学に則って歌が詠まれます。例えば「しのぶ心」なんてのがそれにあたります。
しかし西行、彼にはそんな格好つけた美学なんてありません。
自分が思ったこと、感じたこと。人生の苦悩のありのままを歌にしたのです。
だから西行の歌は伝統的和歌の文脈で捉えると、いわゆるカッコ悪いのが多い。

でも「カッコ悪いのがカッコイイ」!
西行が愛される理由は、この臆面もない「カッコ悪さ」にあるのです。

今回はフーテンの歌人西行の、カッコ悪い歌を中心にご紹介しましょう。

西行の十首

一「身を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ」(西行)
出家しない奴のほうが、その身を捨ててんじゃないの? 求道者西行独自の人生観です。
ちなみにこの歌、よみ人知らず扱いではありましたが、初めて勅撰集(詞花集)に入集した歌です。

二「世の中を 捨てて捨てえぬ 心地して 都離れぬ わが身なりけり」(西行)
勢いよく家を出ちまったけど、早まった事しちゃったなぁ。ちょっぴり後悔の西行です。

三「尋ぬとも 風の伝にも 聞かじかし 花と散りにし 君が行くへを」(西行)
返「吹く風の 行くへ知らする ものならば 花と散るにも 遅れざらまし」(堀川)
西行にはマドンナがいました。自らが仕えた徳大寺実能の妹「待賢門院璋子」です。
西行はその待賢門院の女房達と親しく、多くの贈答歌を残しています。百人一首にも名が残るこの堀川もその一人。
出家したって、女性とは仲良くしちゃうのが西行さん。この歌は亡き待賢門院を偲んで詠んだものです。

四「今宵こそ 思ひしるらめ 浅からぬ 君に契りの ある身なりけり」(西行)
たまたま山を下りたタイミングで、西行は鳥羽院の葬儀に立ち会います。
西行は若い時分、目を掛けてもらった院へのはなむけとしてこの歌を贈りました。
ちなみにこの鳥羽院の死を契機に、崇徳院と後白河天皇の確執は表面化、保元の乱へと発展するのです。

五「よしや君 昔の玉の 床とても かからむのちは 何にかわせむ」(西行)
保元の乱に敗れた崇徳院は讃岐に流され、不遇のままその地で没します。
崇徳院とも交流があった西行は、その弔いに白峰へ参詣したのでした。
そこで目にしたのは世にも恐ろしい姿に成り果てた崇徳院! 西行はこの歌を以って、怨霊となった院を鎮魂します。
というエピソードが、上田秋成「雨月物語(白峰)」に描かれています。

六「年長けて また越ゆべしと 思ひきや 命なりけり 小夜の中山」(西行)
西行は生涯に二度、東国への旅をしています。
この歌はその二度目、高齢になって再び相まみえた小夜の中山の感動を歌にしたものです。
「願わくば…」や「心なき…」など西行の歌は有名なものが多いですが、
もしファン投票をしたら、きっとこの「年長けて」が一位になることでしょう。

七「風になびく 富士の煙の 空に消えて 行方も知れぬ わが思ひかな」(西行)
富士が歌に詠まれる場合「煙」が縁語になることが多いです。
それもそのはず、和歌が盛んであった8~11世紀には富士山は割と頻繁に噴火していたのです。
この歌は旅の途中、風になびく富士山の煙に、未だ行くへ定まらぬ自らを重ねた歌です。
「俺はどうすりゃいいんじゃ~」と。

八「道のべに 清水流るる 柳かげ しばしとてこそ 立ち止まりつれ」(西行)
これは「歌枕ミテマイレ」でお馴染みの「藤原実方」の墓標に対峙して詠んだ歌です。
実方は都一の風流人で名を馳せていましたが、一条天皇の面前で藤原行成と喧嘩騒ぎを起こし行成の冠を投げ捨てるという暴挙に及んだことから陸奥守に左遷させられてしまいました。
西行は同じ風流を愛する人間として、この実方に憧憬を重ねています。
ちなみにこの柳は「遊行柳」と言われ、松尾芭蕉も奥の細道の旅で発句を詠んでいます。
「田一枚 植えて立ち去る 柳かな」
感じ入るエピソードさえあれば、一本の柳も道のべの石ころも特別な輝きを放つのです。

九「惑ひきて 悟り得べくも なかりつる 心を知るは 心なりけり」(西行)
迷い迷っても、結局悟りなんて得られない!! 信じられるのは自分の心だけだ。
と、言っているように聞こえます。
西行は西行にしかたどり着けない、オンリーワンの道にたどり着きました。

十「花に染む こころのいかで 残りけむ 捨て果てきと 思ふわが身に」(西行)
俗世の全てを捨てて出家したはずだったのに、どうしても花に寄せる心は残って消えない。
でもいいじゃん、好きなんだもん。って、西行ならきっと正々堂々と言ってくれるはずです。

釈迦の説法を持ち出して偉そうに語る高僧より、西行の歌の方がずっと身に沁みます。
西行が愛される真髄を、ここに見ました。

(書き手:歌僧 内田圓学)

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