藤原良経 ~天才貴公子が描く抽象のデカダン~

和歌史における特異点はまちがいなく新古今の時代でしょう。帝王たる後鳥羽院をはじめ、定家、家隆、俊成女、式子内親王など個性的で優れた歌人がわずかな時間、ごく狭い場所で同時に活躍し、和歌を文芸の極みへと昇華させました。天才と評される歌人もひとり、ふたりでは収まりませんが、それでいうと後京極摂政前太政大臣こと藤原良経こそ、その名に最も値する人物です。

藤原良経は兼実の次男、ちなみに兼実は五摂家の一つである九条家の祖であり、良経は「九条良経」とも表されます。天台座主で歌人としても知られる慈円を叔父に持ち、和歌や漢詩はもちろん書にも優れたと聞きますから、当代随一の貴公子といって間違いありません。

和歌は藤原俊成に学びました。これが抜群で、かの後鳥羽院も「不可思議なりき(常識がおよばない)」「地歌もなく見えしこそ(平凡な歌がない)」、「秀歌あまり多くて(上手すぎる!)」と、べた褒め。
その才能は一歌人におさまらず宮廷歌壇をけん引、歴史的な「六百番歌合」の主催し、また自ら和歌所の寄人筆頭となって新古今和歌集の撰修に関り仮名序までも書き上げました。新古今の一番歌が良経であり、またこれに西行、慈円に次いで七十九首が採られていますから、彼の存在感というものが十分にわかるでしょう。

しかしこれらが“光”の面だとすると、うらはらに無残な“闇”も抱えているというのが藤原良経という人です。

建久7年(1196年)、政敵であった源通親らの策謀に陥れられて父とともに朝廷から追放されてしまう「建久の政変」も悲劇のひとつですが、なんといっても彼自身の死です。
良経には良道という、父に将来を期待された長男がいました。しかし二十二歳の時に病で急死、父はひどく嘆き悲しんだといいます。九条家の期待を一身に背負うことになった良経でしたが、なんと彼も三十八歳の若さで夭折してしまうのです。この死因が不明で愚管抄には「寝死二」とだけあり、暗殺されたなんて噂も流れました。ともかく跡継ぎが相次いで亡くなる、しかも父よりも先に逝ったというので、九条家の絶望は生半可でなかったことでしょう。

ちなみに定家は九条家の家司として出仕しており、良経とはたいへん親しい関係にありました。良経は御子左家のパトロンでありまたよき理解者でもあり、身分を越えて切磋琢磨することで、歴史的な「新古今」が成ったことがわかりますね。

冒頭で述べたように新古今時代は優れた歌人にあまた恵まれましたが、なかでもナンバーワンは良経で間違いありません。いや確かに定家や家隆も優れていたでしょう、しかし彼らのは「案じ返し案じ返し(考えつくした)」た、「いりほがのいくり歌(凝りすぎの歌)」の疑いが晴れません。しかし良経は違います、良経の作品は「自然によみ出さるる」ものであり、その意味で彼は天才肌のアーティストあったのです。

良経の歌は、例えば本歌取りでも本歌をそれほど意識していないように聞こえます。これは定家が本歌取りにあれこれ注文をつけた態度※とまったく異なります。理屈や根拠に捉われることなく、みずからの感性をよりどころに本歌や歌語を織りなし、声調の際立って美しい歌を仕立てる。これこそが良経の歌作りの真骨頂でした。

こうして成った良経の歌は美しくはあれ、内容不明瞭のものが少なくありません。これは声調優先で、意味を置き去りにした弊害と言えなくはないでしょう。しかしこれは良経詠の本質ではありません、良経の歌はなんだかわからないけどかっこいい、つまり「抽象性」にあるのです。

文章での説明が難しいのでこうしましょう、十九世紀の抽象画家「ワシリー・カンディンスキー」です。
カンディンスキーは具体的な風景(対象)を描かずにキャンバスに色彩とその構成のみを表しました。彼は色自体に意味性があると考え、色の構成のみでテーマが表現できると考えたのです。

「即興 渓谷」(ワシリー・カンディンスキー)

これは和歌の「歌語」と同じです、歌語は文字面の裏に深い物語を含んでいます。たとえば「ほととぎす」には「立夏」「思慕」といった意味性です。つまり良経は歌語の意味性を活用し、詞による構成によって意味と意味が重層化された不可思議で唯一無二の歌を詠んだのです。

一首を通した意味とか、内容といった当たり前を踏まえていては、良経のような芸術は決して生まれないでしょう。良経が天才だというのはこんなことを何の疑いもなくやってのける、そういうところなのです。

藤原良経の十首

(一)「み吉野は 山も霞て 白雪の 降にし里に 春はきにけり」(藤原良経)
この歌は平凡な感じもなくないですが、注目すべきは新古今和歌集の記念すべき第一首であるということ。良経は新古今和歌集の仮名序をも執筆していて、後鳥羽院の信頼厚かったことが分かります。

(二)「吉野山 花のふるさと あと絶えて むなしき枝に 春風ぞふく」(藤原良経)
花が散った枝に春風だけが吹いている。なんと美しい情景でしょうか! これぞ余情の極みです。

(三)「うちしめり 菖蒲ぞかをる ほととぎす なくや五月の 雨の夕暮れ」(藤原良経)
嗅覚、聴覚、視覚を同時に刺激しする、これぞ抽象の妙技! このような歌は良経にしか詠めません。

(四)「雲はみな 払ひはてたる 秋風を まつに残して 月をみるかな」(藤原良経)
一見シンプルな歌ですが「秋風を松に残す」という複雑な情景歌、これぞ良経詠の魅力です。

(五)「月ぞすむ 誰かはここに 紀国や 吹上の千鳥 独りなくなり」(藤原良経)
月の下に独り鳴く千鳥。これは自身の暗喩でしょうか?

(六)「身にそへる その面影も 消えななむ 夢なりけりと 忘るばかりに」(藤原良経)
面影も夢と消えてほしい。これが良経の恋歌です。

(七)「わが涙 もとめて袖に 宿れ月 さりとて人の 影はみえねど」(藤原良経)
「さりとて」というネガティブな発想が良経歌をそれたらしめています。

(八)「月みばと いひしばかりの 人はこで 真木の戸たたく 庭の松風」(藤原良経)
約束したあの人は来ない。ただ松風が真木の戸を叩いている。恐ろしいまでの寂寥の世界です。

(九)「おしかへし ものを思ふは 苦しきに 知らず顔にて 世をや過ぎまし」(藤原良経)
良経の雑歌です。雑歌は四季や恋の題詠歌と違い、作者の本心が表れやすいといいます。「知らぬ顔をして過ごしていこうか」なんて言っちゃう摂政・太政大臣が好きです。

(十)「春日山 都の南 しかぞ思う 北の藤波 春にあへとは」(藤原良経)
春日山にある春日大社は藤原家の家社であり、北の藤波とは藤原北家のことを指します。自らの家筋の繁栄を願った歌ですが、うらはらに藤原北家は五つに分裂(五摂家)し、影響力もしだいに弱くなってゆきました。

さて、わずか十首ばかりでしたが良経詠の「抽象性」を感じ取れたのではないでしょうか。

先に紹介したカンディンスキーは「カタストロフ」などのテーマを抽象的に表しましたが、良経はどうでしょう? もうお分かりですよね、それは端的に「空虚」です。

声調麗しい詞によって美を結晶しつつ、しかしそれは微細な雪の結晶で詠まれるや否や消えてしまう、そんな儚さ、つまり「デカダン」こそが良経がすべての詠歌にじませたテーマであったのです。こと詩歌文学において、彼を超える才能はいまだ現れていません。

※「本歌取り侍るやうは、さきにも記し申し候ひし花の歌をやがて花に詠み、月の歌をやがて月にて詠む事は、達者のわざなるべし。春の歌をば秋・冬などに詠みかえ、恋の歌をば雑や季の歌などにて、しかもその歌を取れるよと、聞き手に聞ゆるやうに詠みなすべきにて候。本歌の詞をあまりに多く取る事は、あるまじきにて候。そのやうは、詮(せん)と覚ゆる詞、二つばかりにて、今の歌の上下句に分かち置くべきにや。(略)
(「毎月抄」 藤原定家)

(書き手:歌僧 内田圓学)

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