菅原道真 ~悲劇の唇が吹くIn A Silent Way~

一人十首の歌人列伝、記念すべき20人目は「菅原道真」です。
道真は天神様また学問の神様として、太宰府をはじめとする各地の天満宮に祀られていることで有名ですね。
その悲劇的な人生の結末から、いわゆる「日本三大怨霊」なんてのにもその名が残ります。※ちなみに他の二人は「崇徳院」と「平将門」です
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和歌界の重鎮「紀貫之」や「藤原定家」をもしのぐ知名度ですが、一方でその歌と言えばほとんど知られていないのではないでしょうか?
下の一首を除いては…
「東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな」(菅原道真)

道真は文章博士(漢詩文の偉い先生)というエリート学者でありながら、宇多天皇に登用されて右大臣という超エリート官僚・政治家にまで昇りました。
宇多天皇がよせる信頼は相当なもので、譲位の際にも後継の醍醐天皇に道真の重用を求めるほどでした。
ちなみに百人一首にも採られたこの歌、

「このたびは 幣も取りあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに 」(菅原道真)
これは道真が宇多天皇の行幸の際に安全祈願として詠んだものです。
互いが敬意を払い、必要としあった親密な間柄であったことが伺えますね。

しかし、これがやがて藤原氏はじめ他氏族の反感を買います。
「専権の野望を抱いて父子(宇多、醍醐帝)を離反させよとした」などと左大臣藤原時平らに訴えられ、大宰府に左遷させられた結末(昌泰の変)、あえてするまでもありませんね。
先の「東風吹かば…」は、道真が京を離れる際に詠まれたと伝わっています。

栄華から一転、傍流の地へ流され失意のうちに亡くなった菅原道真。この物語は格好の悲劇となりました。
大鏡(藤原時平)や新古今集(雑下)はじめ、道真と言えばこの文脈で語られることがほとんどです。今も人気の演目「菅原伝授手習鑑」も、この話を下敷きに創作されています。

しかし、それだけで道真を語りつくしてしまうのは非常にもったいない!
道真は歌人いや漢「詩人」として、素晴らしい句をいくつも残しているのです。
今回は和歌ではなく、道真の漢詩に注目してみたいと思います。

道真の句は平明で優雅、さながら「日本の白楽天」といった風格が特徴です。
が、それもそのはずで道真はその句の多くを白楽天の歌集から引用しているといいます。

「白楽天」。それは平安貴族の誰もが憧れた偉大なる唐詩人です。
その詩集「白氏文集」は9世紀半ばに輸入され、瞬く間に宮中を席巻し一大ブームを起こします。例えるなら、ムード歌謡溢れていた昭和の邦楽シーンにビートルズがやってきた! という感じでしょうか。猫も杓子も白楽天、詩歌における美の捉え方も、歌作りそのものも変えてしまう絶大なインパクトを与えました。
しかもこれ、一過性の現象ではなく平安時代を通じて継続するのです。あの源氏物語や枕草子も、白楽天の詩を引用したエピソードがテンコ盛りだって、知っていました?
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白楽天へのリスペクトが最大に表れているのが藤原公任撰の「和漢朗詠集」です。
これはその名の通り、朗詠用に人気があった和歌と漢詩の秀撰集なのですが、この唐詩人句のなんと約7割が白楽天のものなんです。圧倒的な入れ込みよう! ちなみに日本詩人で最多登場が道真の孫の菅原文時、次いで今回主役の菅原道真なんです。

つまり平安文化人にとって詩歌の理想は白楽天にあり、これに対抗する日本詩人が菅原道真であったということです。
ちなみに平安時代初期、勅撰漢詩集が三つも編纂される「漢詩ブーム」がありましたが、この時代の句はほとんど採られていません。白楽天の前と後で明確な線引きがなされていることが分かりますね。

先に道真の詩について、白楽天からの引用が多いと紹介しました。しかしこれは同時代の大江千里の「句題和歌」が、白楽天句のほぼ和訳であったことと同じではありません。
彼は白楽天を十分に吸収した上で、伝統的な和風美と止揚し、漢を超える独創的な「和」として再構築したのです。
道真は自らの家集「菅家文草」を醍醐天皇に献上します。
これを受けた天皇は「平生所愛白氏文集七十巻是成 今以菅家不亦開帙」
もう白氏文集はいらん、今後は道真の家集だけ見よう!! と絶賛したのでした。

菅原道真という学と才を併せ持った詩人がいたからこそ、日本独自の文化物「古今和歌集」が成立し、国風文化が花開いたのです。遣唐使廃止を申し出たのが道真であった、というのもなんだか納得できますね。

さて、前振りが長くなってしまいましたが、和漢朗詠集から道真の漢詩をご紹介しましょう。
そこに悲劇に嘆く落ちた学者はいません。静かにそして優雅に! 耽美を詠じる詩人がいるのみです。

菅原道真の五句

■三月三日付桃花
煙霞遠近応同戸(えんかきんえん、まさにどうこなるべし)
桃李浅深似勧盃(とうりのせんしん、けんぱいににたり)

遠くも近くも皆酔っ払いの顔になっている。浅く深く咲いている桃も李(すもも)も、盃を勧めているようだ。
3月3日の節句、賑やかな祝宴の様子が伝わってきます。
ところで漢詩と言えば酒と桃のイメージが強いですが、なぜだがこれら和歌にほとんど詠まれることがありません。

■氷付春氷
氷封水面聞無浪(こおりはすいめんをふうじて、きくなみなく)
雪点林頭見有花(ゆきはりんどうにてんじて、みるはなあり)

氷は水面を閉ざして音もしない。雪は林に積もって花のようだ。
しんしんと雪が降り積もる閑寂の情景、まるで水墨画の一絵のよう。
この句なんと道真14歳の作品だそうです。

月輝如晴雪(月の輝きは晴れたる雪の如し)
梅花似照星(梅花は照れる星に似たり)

菅家という学者エリートの家に生まれた道真は、11歳で上の漢詩を詠んだといいますが、
これが幼稚に思えるくらい、14歳の道真は大人びています。

■管絃附舞妓
落梅曲旧唇吹雪(らくばいきょくふりて、くちびるゆきをふき)
折柳声新手掬煙(せいりょうこえあたらにして、てにけむりをにぎる)

「落梅」の曲は古びているが、笛を吹く唇からは雪のような花が舞う。「折柳」の曲は新しく琴を引く手は煙のようだ。
「唇が雪を吹く」だなんて、めっちゃシビれるフレーズです!

■閑居
都府楼纔看瓦色(とふろうはわずかにかわらのいろをみる)
観音寺只聴鐘声(かんのんじはただかねのこえをきく)

太宰府の楼門はわずかに瓦を見るだけ。観音寺はただ鐘の音を聞くだけだ
これは配流先の太宰府で詠んだ句です。古典ファンなら分かりますよね、そう枕草子にも出てくる白楽天句の本歌取りです。
遺愛寺鐘欹枕聽(いあいじのかねは、まくらをそばたててきき)
香爐峰雪撥簾看(こうろほうのゆきは、すだれをあげてみる)

句題はただの「閑居」ですが、道真の最後を知っていると、どうしても泣けてくる句です。

■妓女
秋夜待月、纔望出山之清光(あきのよにつきをまちて、わずかにやまをいづるせいこうをのぞむ)
夏日思蓮、初見穿水之紅艶(なつのひにはちすをおもいて、はじめてみずをうがつこうえんをみる)

これはなんと、祝宴で待ちかねた遊女を見て大興奮した時の句です。
道真のイメージを一新してくれるなんとも素晴らしい句ですね!
それにしても「秋の夜に待ってる月が、山の端からわずかに出た光を見ているようだ」とか「夏の日に蓮を見たいと思って、やっと見えた紅色の花を見ているようだ」なんて、凡人には到底考えつかないレトリックです。

道真が得意とするこの可憐な比喩や見立ての技法が、日本詩歌ひいては日本文化のレベルを引き上げたのは確実です。

(書き手:歌僧 内田圓学)

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