紀貫之 ~雑草が咲かせた大輪の花~


ついに大御所、紀貫之御大の出番がやってきました。
貫之は古今和歌集の代表的歌人だけでなくその選者として、また土佐日記の作者としても知られる「王朝文化人の王様」ともいえる偉大な人物である。と我々は記憶しています。
ところがです。想像に反してリアル貫之は、生涯最高位が従五位上という「かろうじて貴族」であった人なのです。

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平安時代の位階というシステムは、官人を正一位を筆頭に少初位下までの30のランクに分けていました。その中で貴族と呼ばれるのは五位以上のものに限られていたのです。
ですから貫之の従五位上というのはあと2ランク落ちれば正六位上、つまりただの中流官人であり、今で例えるならノンキャリアの公務員? というようなそこそこの人だったです。
ちなみに新古今和歌集の選者である藤原定家の生涯最高位は正二位。貫之とは違い大出世したことが分かります。まあ、朝廷における「歌」の地位向上の影響が大きいのだと思いますが。
→関連記事「和歌の入門教室 歌人と官位一覧表

さて、もともと貫之の家である「紀氏」は武芸を得意とし、平安時代の初期には大納言にまで昇った由緒正しき家でした。
しかし866年の「応天門の変」によって、大伴氏と共に朝廷の出世ルートの主流から外されてしまったのです。
これは藤原良房の策略ともいわれています。これを機にライバルたちを一気に蹴落としたのですからそう言われても仕方ありませんね。

古今和歌集の前夜、紀貫之は「歌」という一芸をもってなんとか貴族社会を生きながらえていた。
朝廷に生ふる雑草の様に…
という人だったのです。

そんな折です、運命の出来事が起こります。
醍醐天皇から史上初の勅撰和歌集、「古今和歌集編纂」の勅命が下されたのです!

「今も見そなはし後の世にも伝はれとて延喜五年四月十八日に
大内記紀友則 御書所預紀貫之 前甲斐少目凡河内躬恒 右衛門府生壬生忠岑らに仰せられて
万葉集に入らぬ古き歌 みづからのをもたてまつらしめたまひてなむ(中略)
貫之らが この世に同じく生まれて このことの時にあへるをなむ喜びぬる」
古今和歌集(仮名序)

その手によって書かれた「古今和歌集」の仮名序からは、
国家的プロジェクトを任せられたという歓喜がひしひしと伝わってきます。
→関連記事「貫之様にインタビューしてみた

貫之たちが作り上げた古今和歌集は、日本美のルーツとなりました。
それは後世の源氏物語や新古今和歌集はもちろん、一千年を経た我々にも感動という大輪の花となって咲き誇っています。

今回はその花の一端を鑑賞してみましょう。

紀貫之の十首

一「袖ひぢて むすびし水の 凍れるを 春立つ今日の 風やとくらむ」(紀貫之)
季節の巡りを一首で表した歌です。移ろいの体系化にこだわり抜いた貫之渾身の一首です。

二「霞たち このめもはるの 雪ふれば 花なき里も 花ぞちりける」(紀貫之)
はるに「張る」と「春」の掛詞と雪を花に見立てるという、貫之得意の技巧的な歌です。

三「人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香に匂ひける」(紀貫之)
百人一首にも選ばれた貫之の代表歌です。懐かしい郷里で思わず口にしたい歌ナンバー1です。

四「さくら花 ちりぬる風の 名残には 水なき空に 浪ぞたちける」(紀貫之)
風に舞う落花を波に例えた歌。理知的な古今和歌集でもここまでの想像美は珍しい一首。
同世代の「凡河内躬恒」や新古今歌人の歌と比べると少々説明的ではありますが、絵画的和歌の先駆というべき歌です。
→関連記事「凡河内躬恒 ~麗しき二番手の真価~

五「年ごとに もみじ葉流す 竜田川 みなとや秋の とまりなるらむ」(紀貫之)
みなとに集まった紅葉を見て「秋の終点だろうか」なんて言っちゃうの素敵すぎます。

六「雪ふれば 冬ごもりせる 草も木も 春に知られぬ 花ぞ咲きける」(紀貫之)
素敵すぎる第二弾。雪を「春に知られぬ花」なんて言っちゃうのです!

七「明日知らぬ 我が身と思へど 暮れぬまの 今日は人こそ 悲しかりけれ」(紀貫之)
これは同じ古今和歌集選者の一人であり従兄弟である「紀友則」の死を悼む歌。
この歌が古今集に載っていることから、紀友則は集の完成を見ずして亡くなったといわれています。
様々な苦難を超えて、古今和歌集は成立したんですね。

八「今いくか 春しなけれは うぐひすも ものはながめて 思ふべらなり」(紀貫之)
これは「物名」というジャンルの歌です。歌中に「すもののはな」が詠まれています。
技巧派貫之からしたら、物名は腕の振るいどころだったでしょうね。

九「山ざくら 霞のまより ほのかにも 見てし人こそ 恋しかりけれ」(紀貫之)
恋歌の名手でも、貫之はあったんですね。分かりやすくも美しい、一目惚れの瞬間を切り取った歌です。

十「手にむすぶ 水にやどれる 月影の あるかなきかの 世にこそありけれ」(紀貫之)
これが貫之辞世の歌といわれています。
この世の無常を「手に救った水に映る月」に例えるなんて、貫之は最後まで貫之でした。

古今和歌集の成立後、貫之は従五位に叙せられ晴れて貴族の一員となります。
そしてその25年後の930年、国司となって土佐に下るのです。
土佐から帰京の際に記した日記「土佐日記」は、タイトルだけは誰でも聞いたことがありますよね。

ちなみに当時、国内の各地域は「大国」「上国」「中国」「下国」にランク付けされていました。
貫之の官位からすると「大国」の国司にも就けたはずですが、彼が下った土佐は「中国」でした。
時代を築いた歌人としてはどういう気持ちだったのでしょうね。
都が嫌になったのか、はてはお金に困ったのか? 今は想像するしかありません。

ただ身分は低くとも、紀貫之が朝廷随一の天才歌人であったことは疑いようがありません。
※貫之は明治になって名誉贈位として従二位を贈られています。

一首一首が細部までぬかりなく美を留める貫之の歌。
貫之がいなければ、日本美は今のような日本美ではなかったことでしょう。
「大空の月を見るがごとくに古を仰ぎて、貫之様を恋ざらめかも」です。

(書き手:歌僧 内田圓学)

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