柿本人麻呂 ~みんなの憧れ、聖☆歌人~

和歌を語る時、決して欠かすことができない絶対的な存在がいます。いや(襟を正して…)、いらっしゃいます。そのお方こそ誰あろう「柿本人麻呂」様です!

人麻呂は名だたる歌人をして、こう言わしめています。

「かの御時に、正三位柿本人麿なむ歌の聖なりける」
紀貫之 古今和歌集(仮名序)

「柿本の人麿なむ殊に歌の聖にはありける。これはいと常の人にはあらざりけるにや。」
藤原俊成 古来風躰抄

貫之、俊成ともに歌の聖(ひじり)、つまり「神」というべき存在であると評しているのです。さらに実朝以外の歌人を断固認めない? あの正岡子規もこうです。

「人丸の 後の歌よみは 誰かあらん 征夷大将軍 みなもとの実朝」
正岡子規

人麻呂を第一の歌人として、その後は唯一敬愛する源実朝のみ、と言っています。ちなみにこの「人麻呂=聖」ですが、なんと万葉集の後期にはすでに確立されていたようで、大伴家持は万葉集の中でこう歌に残しています。

「幼年未逕山柿之門」
大伴家持 万葉集巻十七

「山柿之門」の山が「山部赤人(山上憶良とも)」、柿が「柿本人麻呂」を指し、歌を学ぶものがまず叩くべき門であると言っています。「詩聖杜甫」ならぬ「歌聖人麻呂」は、歴々の歌人たちに崇拝の念をもって称えられてきたことがわかります。

しかしこの人麻呂、その多くが謎に包まれたています。当時の史書を探してもその名はなく、頼るのは「万葉集」に残る歌のみ。それによると主に持統天皇の御代で歌人として活躍、後に国司となり石見に赴任、その地で没したといいます。このベールに包まれた感じが、“聖オーラ”をよけいに演出しているのかもしれませんね。

さて、人麻呂がすごいのは詠みぶりに制限がないことです。皇室の折々の遊興に応じ献上した「雑歌」、自らの妻に寄せた詠んだ「相聞歌」、主に天武天皇の皇子らに哀悼を捧げた「挽歌」と、ひとりで万葉集のほとんどを形づくるかのごとく多彩な歌を残しています。

さらにすごいのがそれら一首一首に生命が宿っていることです。時に天空から、時に海原から、遠近自在のスポットライトで万物を照らし、心を揺らす雄大悲壮な物語を仕立てあげているのです。盛唐の詩人に負けぬこの歌力こそが「歌の聖」と呼ばれる所以でしょう。

実のところ柿本人麻呂という歌人が現われなければ、宮廷歌謡の主役はとっくに漢詩に置き換わっていたでしょうし、平安初期の国風暗黒期をへて再興するパワーをも和歌は持ち合わせなかったことでしょう。それほどに人麻呂が作り上げた歌は格調高く、宮廷にこそふさわしい文学であったのです。

今回はそんな聖☆歌人、柿本人麻呂の十首をご紹介しましょう。
※都合上、採り上げたほとんどは短歌ですが、本来人麻呂の魅力は本来「長歌」にあります。ですのでみなさまにはぜひ、万葉集の巻一、二をご覧いただければと思います

柿本人麻呂の十首

一「もののふの 八十宇治川の 網代木に いざよふ波の 行くへ知らずも」(柿本人麻呂)
行方の知れない人生を、波に漂う網代木に例えた歌です。人麻呂は七世紀後半の歌人ですが、すでに当時これほど洗練された歌を詠んでいたことに感銘を受けます。

二「淡海の海 夕浪千鳥 なが鳴けば 心もしのに 古思ほゆ」(柿本人麻呂)
淡海の海とは琵琶湖のことです。昔、この近江の地に都がありました、天智天皇の御代です。その時代を偲んで詠まれた歌です。

三「ひむがしの 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ」(柿本人麻呂)
東の空に昇る朝日を、西の空に沈む月を見る。まさに万葉風の雄大な歌です。
実はこの歌、登る太陽に軽皇子を、沈む月に亡くなった皇子の父である草壁皇子を喩えていると言われます。草壁皇子は天武天皇の息子でありながら、即位することなく二十八歳の若さで早世してしまいました。人麻呂は若々しい軽皇子に次時代を感じながらも、無念の草壁皇子に心を寄せています。

四「天の海に 雲の波立ち 月の船 星の林に 漕ぎ隠る見ゆ」(柿本人麻呂)
天の海すなわち天の川を月の船が渡るという、現代にも通じるロマンチックな歌です。

五「天雲の たなびく山に 隠りたる 我が下心 木の葉知るらむ」(柿本人麻呂)
人麻呂ともなると、忍ぶ恋の例え方もかなり雄大です。こういう平安歌人にはない“男らしさ”を、正岡子規は評価したんですね。

六「石見の海 角の浦廻を 浦なしと 人こそ見らめ 潟なしと 人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟はなくとも いさなとり 海辺を指して 和田津の 荒磯の上に か青く生ふる 玉藻沖つ藻 朝羽振る 風こそ寄せめ 夕羽振る 波こそ来寄れ 波の共 か寄りかく寄る 玉藻なす 寄り寝し妹を 露霜の 置きてし来れば この道の 八十隈ごとに よろづたび かへり見すれど いや遠に 里は離りぬ いや高に 山も越え来ぬ 夏草の 思ひ萎えて 偲ふらむ 妹が門見む 靡けこの山」(柿本人麻呂)

人麻呂は国司(地方官)となって石見(島根県西部)に赴任しました。この歌は石見から上京の折、残してきた妻へ詠んだ歌です。
石見の海、そんなにいい所ではないと人は言うだろう。でもよく見ると美しい情景が広がる、そんな石見に愛しい妻を置いてきた。遠く山を越え、もはや何度振り返っても、愛しい妻はもう見えない。邪魔だどけっ、この山!!
これは長歌といって、五七を複数回繰り返す形式の歌です。人麻呂はこの長歌を得意とした歌人でした。心地よいリズムと言葉の調べはまさに「歌(SONG)」というべきもの。人麻呂の歌はぜひ声に出して読んでみましょう。

七「石見のや 高角山の 木の間より 我が振る袖を 妹見つらむか」(柿本人麻呂)
八「小竹の葉は み山もさやに さやげども 我は妹思ふ 別れ来ぬれば」(柿本人麻呂)
これらは六の長歌に付けられた反歌です。万葉の恋歌はストレートな愛情表現で溢れていて、心から清々しい気持ちになりますね。

九「秋山の 黄葉を茂み 迷ひぬる 妹が求めむ 山道しらずも」(柿本人麻呂)
十「黄葉の 散りぬるなへに 玉づさの 使を見れば 逢ひし日思ほゆ」(柿本人麻呂)
先ほどの恋歌から一転、最愛の妻が亡くなった際に詠んだ歌です。妻が行ってしまった道が分からない。ああ、昔が思い出される… 詞書には、血の涙を流して作ったとされています。かける言葉が見つからないくらい、悲愴に暮れる人麻呂の姿が伝わってきます。

紀貫之は言いました。

「人麿なくなりにたれど 歌のこととどまれるかな(中略)歌の様をも知り この心を得たらむ人は 大空の月を見るがごとくにいにしへを仰ぎて 今をこひざらめかも」
紀貫之 古今和歌集(仮名序)

柿本人麻呂は遠い時代に亡くなってしまいましたが、和歌を知りその心が共感できたならば、いつでも会うことができる。

人麻呂の歌を見てお分かり頂けたように、「歌聖」は遠い雲上の存在ではなく、私たちと同じ悩める人間だったのです。この当たり前の事実。気づけば人麻呂だけでなく、和歌のことがもっともっと好きになると思います。

→関連記事「万葉集の引力! 柿本人麻呂の挽歌と六皇子

(書き手:歌僧 内田圓学)

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