後鳥羽院 ~お前のものは俺のもの、中世のジャイアン~

後鳥羽院は帝王の中の帝王というような人物です。
といっても、この時代の政治権力は実質的に鎌倉の幕府に移っていましたから、院の力は主に「文化」や「スポーツ」活動において発揮されました。

後鳥羽院がハマった文化・スポーツは多岐にわたります。狩猟に競馬、相撲、蹴鞠。囲碁、双六、琵琶、今様そして和歌。これら文武に秀でた者たちを集め「合せる」、つまり「勝負」させることを非常に楽しんだといいます。

これらの勝負ごと、たんなるお戯れだと思ったら大間違い。なぜなら勝負の結果如何が演者の人生(出世)を左右したのですから。例えば遊女、今様(今でいう流行歌)が見事であれば遊女であっても院の寵愛を受けました。

言うなれば文芸の下剋上! 秀でた才能があれば年齢、性別、身分、官位に関係なく出世の道が開けますが、逆に取り柄のないものはその道も閉ざされる。院のサロンにおける勝負はまさに命懸けの真剣勝負だったのです。

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中でも院がのめりこんだのが「和歌」でした。後鳥羽院が和歌に興味を持たなければ、藤原定家も見い出されず、日本の文化史に燦然と輝く「新古今和歌集」も成立しなかったことでしょう。

院が催した歌の勝負でエポックメイキングなのが「千五百番歌合」です。三十人の歌人が百首ずつ、計三千首を左右につがえて千五百番の歌合を実施したのです。これ以前に藤原良経の主催で六百番の歌合が行われていますが、その倍以上となる千五百番ほどの大規模な歌合は後にも先にも類がありません。

後鳥羽院といえば「新古今和歌集」を下命したことでも知られますよね。
和歌に対して異常な愛着をみせる後鳥羽院です、その編纂作業も一筋縄でいくわけがありません。藤原定家など6名の選者がいるにも関わらず、編纂を命じた院自ら積極的に作業に関わりました。歌の選定や配列に介入するのはもちろん、冒頭の仮名序にまで院自らの語りで登場するのです。
ちなみにその仮名序の一文をみると、、

「このうち、みづからの歌を載せたること、古きたぐひはあれど、十首にはすぎざるべし。しかるを、今かれこれえらべるところ、三十首にあまれり(略)」
新古今和歌集(仮名序)

かつてないほどたくさん自分(天皇)の歌を入れちゃったけど許してね、と茶目っ気たっぷり…

その新古今和歌集。1201年に編纂作業を開始して1204年にいったん完成披露パーティーが開かれるのですが、、、 その後も院の指示であれこれと切り継ぎ作業が続きました。私たちがいま目にしている形に整ったのが1210年だといいますから大変な歳月です。
これには武骨なサラリーマンといえる定家もさすがに参ったようで、その日記に…

「和歌所においてまた新古今を沙汰す。尽くる期無き事也…」
明月記

と、相当へきえきした感想を漏らすほどでした。
→関連記事「藤原定家 ~怒れる天才サラリーマン~」

これほど主体的で、強さを持った帝王は日本史的にも異例といえるでしょう。しかし後鳥羽院の異例には、彼の弱さに直結する異例もありました。というのも後鳥羽院、平家との騒乱の中で三種の神器なき即位をした天皇だったのです。後に「八咫鏡」と「八尺瓊勾玉」は見つかるのですが、「天叢雲剣」はとうとう見つけることができませんでした。

これは想像でしかありませんが、皇室の武力の象徴たる天叢雲剣がないということは院にとって最大のコンプレックスとなったのだと思います。だからこそみずから作刀にも奮闘し、北面に加えて西面にまで武力を配置した…

この末路が「承久の乱」です。みずから作り上げた武力への過信が北条義時追討の院宣に至ったのでした。神器なき帝王というコンプレックスは院の心を支配してやまず「あぢきなき世」は院の人生についてまわった、これを晴らすことのみが院の生きがいであり存在理由となってしまったのです。

「人も惜し人も恨めしあぢきなく世を思ふゆゑにもの思ふ身は」(後鳥羽院)

承久の乱の結末は… 言わずもがな、院側の大敗に終わりました。乱の衝撃は後鳥羽、順徳が敗れたことよりも、戦後処理として幕府が院と天皇を配流に処したということでしょう。当時(院政期)、天皇を選定する人事権は治天の君にありました、それが幕府に奪われて、あろうことか治天の君が処罰されてしまったのです。つまりこの瞬間、公家と武家の権力は明白に逆転してしまったのです。

さすがの後鳥羽院も意気消沈… とはなりませんでした!
隠岐に渡った後も、あの新古今和歌集をまたまた編集しはじめるのです。これがいわゆる「隠岐本新古今和歌集」ですが、流刑の地で怨霊となり恐れられた崇徳院とはメンタリティーが全く違いますね。
→関連記事「崇徳院 ~ここではないどこかへ~

さて後鳥羽院の歌ですが、そこには院の性格がもろに表れているようです。良い歌は遠慮なく頂く、それは「本歌取り」なんてオマージュめいたものではなく、「俺のものは俺のもの、お前のもの俺のもの」といった帝王の理屈、まさに中世のジャイアンです!
今回は無類の帝王、後鳥羽院の十首をご紹介しましょう。

後鳥羽院の十首

(一)「みわたせば 山もとかすむ 水無瀬川 夕べは秋と なにおもひけむ」(後鳥羽院)
後鳥羽院は水無瀬川に別荘を作りました。そこへ遊女や白拍子を招き、羽目を外した遊び三昧の日々を過ごしたといいます。

(二)「桜さく 遠山鳥の しだり尾の ながながし日も あかぬいろかな」(後鳥羽院)
本歌は百人一首でも有名な「あしきひの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかもねむ」ですね。
もとの歌をほとんど頂いちゃっていますが、院がいるのは山鳥から遠い場所つまり都という設定です。閑寂な雰囲気はなく、ただ「飽きないなぁ」という帝王らしいゆったりとした歌です。

(三)「山里の 峰の雨雲 途絶えして ゆふべ涼しき 真木の下露」(後鳥羽院)
「峰の…、途絶えして…」は、定家の名歌「春の夜の 夢の浮橋 途絶えして 峰にわかるる 横雲の空」を意識してのことでしょうか? ただ歌の余情まではパクれなかったようです。

(四)「寂しさは 深山の秋の 朝くもり 霧にしをるる 真木の下露」(後鳥羽院)
こちらは三夕のひとつ寂連の「寂しさは その色としも なかりけり 真木立つ山の 秋の夕暮れ」を完全に頂いちゃってます。しかも夕暮れを朝の場面に置き換えるといういやらしさ。いくら帝王とはいえ、現代では炎上必死ですよ。

(五)「このころは 花も紅葉も 枝になし しばしなきえそ まつの白雪」(後鳥羽院)
こちらも三夕のひとつ定家の「見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ」を自分のものにしちゃってますね。ただキーワードだけ拝借しているせいか、歌全体から感じる余情は乏しいです。

(六)「奥山の おどろがしたも 踏みわけて 道あるよぞと 人にしらせむ」(後鳥羽院)
俺には俺の道がある、それを知らせてやろう!
承久の乱前夜、鎌倉方への宣戦布告ともとれる、帝王渾身の一首です。

(七)「我こそは 新島守りよ 隠岐の海の 荒き波風 こころしてふけ」(後鳥羽院)
「後鳥羽院遠島百首」から。乱に敗れた院、「俺の道」は閉ざされ隠岐へ流されてしまいましたが、さっそく「俺様が新しいご主人様だぞ!」と、配流先でも威圧感たっぷりです。
※「手加減して吹いてね…」なんて院は絶対言わないでしょう、いや言ってほしくない!

以下、遠島百首が続きます。

(八)「古里を 別れ路におふ 葛のはの 風はふけども かへるよもなし」(後鳥羽院)
古里に帰る術もない。さすがの後鳥羽院も古里が恋しいのですね…

(九)「眺むれば 月やはありし 月ならぬ 我が身ぞもとの 春にかはれる」(後鳥羽院)
いま眺め見る月はありし日の月と違うだろうか、いや違わない。翻って私はどうだ、私だけがあの頃とまったく違ってしまった…
傍若無人の後鳥羽院がウソのように沈鬱な歌です。しかし実はこれ「月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ わが身ひとつは もとの身にして」(在原業平)から頂いちゃってるのは、相変わらずの帝王です。

(十)「同じ世に またすみのえの 月や見む けふこそよその 隠岐つ島守り」(後鳥羽院)
さすがの後鳥羽院も晩年は寂しく過ごしたのかもしれません。「同じ世にまた住むぜ!」という力強さの裏に、でも住むならやっぱり、よその隠岐ではなく住の江がいいなぁ…
帝王の本音が垣間見えた気がします。

ちなみに隠岐は日本最古の闘牛「牛突き」で有名ですが、実はこれ、スポーツ観戦が大好きな後鳥羽院が始めさせたということです。都でもあっても離島であっても「院は院」。いつどこでも全くブレない「俺様キャラ」が、後鳥羽院最大の魅力です。

(書き手:歌僧 内田圓学)
→「百人一首の歌人列伝

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