崇徳院 ~ここではないどこかへ~


崇徳院は並みいる皇族の中でも、最も悲劇的な人物です。
院は父である鳥羽法皇から「叔父子」つまり鳥羽上皇の中宮である待賢門院と祖父である白川上皇の子であると疎んじられていました。
「愚管抄」によると崇徳院の養子である体仁親王(近衛天皇)が即位する際、譲位の宣命に「皇太弟」とされたため、政治の実権を握ることができませんでした。
当時は「院政」の時代です。政治の実権は在位する天皇の父である太上天皇(上皇)が握っていました。つまり院政を行うには、自らの「子」が天皇である必要があるのです。「弟」ではそれは叶いません。
体仁親王は鳥羽法皇と法皇が寵愛していた得子の子でしたから、この策略には鳥羽法皇の意向があったのでしょう。

その近衛天皇が崩御すると、院は自らの第一皇子である重仁親王の即位を画策します。
しかしそれは鳥羽法皇の意向によってまたも叶わず、後白河天皇が即位したのは周知のとおりです。
結局父と子は生涯すれ違ったままでした。

鳥羽法皇が崩御すると、天皇家、摂関家、武家それぞれが抱えていた内紛がついに明るみにでます。
保元の乱です。
後白河天皇と敵対し、敗れた崇徳院は讃岐に流されてしまいます。そして二度と都の地を踏むことはなく乱の8年後46歳で崩御しました。

崇徳院の悲劇は死んでも終わりません。
院の死後、後白河天皇の身内に不幸が続いたことから、怨霊という人々に忌み恐れられる存在として扱われるのです。
※崇徳院、平将門、菅原道真は「日本三大怨霊」などといわれます。

こんなエピソードを聞くと、どうしても崇徳院の歌にはこんな切望を感じます。
ここではない、どこか遠くへいってしまいたいと。

崇徳院の十首

(一)「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われてもすゑに 逢むとぞ思ふ」(崇徳院)
激流の人生。引き裂かれてもなお、いつか逢いたいと願う
これは自身が勅撰を命じた「詞花和歌集」の「恋」にある歌です。でもこの歌を、素直に恋歌と捉える人は少ないでしょう
逢いたいと願ったのは、治天の君となった自らか、若くして亡くなった近衛天皇か、天皇となった息子重仁か、それとも優しく包んでくれる父鳥羽院か… いろいろ想像が膨らんでしまう歌です

(二)「ひさかたの 天の香具山 いづるひも 我が方にこそ 光さすらめ」(崇徳院)
(三)「花は根に 鳥はふるすに かへるなり 春のとまりを しる人ぞなき」(崇徳院)
私の方へ光が差すことなんてあるのだろうか? みんな帰る場所があるのに、私はどこへ行けばいいのだろうか? これらの歌には疑心暗鬼にかきくらす院の姿が見えます。

(四)「紅葉はの 散り行くかたを たづぬれば 秋も嵐の こゑのみそする」(崇徳院)
紅葉が散ったいま、聞こえてくるのは秋の終わりを告げる風の音のみ。

(五)「このごろの 鴛のうきねぞ あはれなる 上毛の霜よ 下のこほりよ」(崇徳院)
「おしどり夫婦」という言葉もあるように、鴛はオスとメスが仲睦まじいことで知られています。和歌でもこの意をくんで歌を詠むのが常套ですが、この歌は様子が違います。
上毛の霜を払ってくれる連れ合もおらず、孤独に浮き寝する鴛。その姿に情を寄せる院の歌には、計り知れない孤独を感じます。

(六)「狩衣 袖の涙に やどる夜は 月も旅寝の 心ちこそすれ」(崇徳院)
私に寄り添ってくれるのは月だけもしれない。

(七)「かぎりありて 人は方々 わかるとも 涙をだにも 留めしてがな」(崇徳院)
限りある命に分かれても、せめて涙は留めていよう
これは母である待賢門院への歌だといいます。院にとって母とはどのような存在だったのでしょう

(八)「誓いをば ちひろの海に たとふなり 露もたのまば 数にいりなん」(崇徳院)
千尋の誓いの海の前では、私の誓いなどものの数ではないことだろう

(九)「うたた寝は 荻ふく風に おどろけど 長き夢路ぞ さむるときなき」(崇徳院)
外の雑音に驚きはしても、長い夢が醒めることはない
絶望を前にしなければ、こんな歌は詠めません

(十)「夢の世に なれこし契り 朽ちずして さめむ朝に あふこともがな」(崇徳院)
夢のような世の中で交わした約束を、夢が覚める前(成仏する前)に果たしたい
これは藤原俊成に宛てた遺言の歌だといいます

崇徳院にとってここ(現世)は悪夢であり、希望の地は浄土つまり死後に求めていたように感じてしまいます。
現在、崇徳院は京都市上京区にある白峯神宮にお祀りされています。
きっと安らかに眠られていることでしょう。

(書き手:歌僧 内田圓学)

→「一人十首の歌人列伝

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