「歌よみに与ふる書」に与える書

子規は下手な歌人にて、近代短歌などくだらない歌の集まりである。
その代表歌「くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる」などは実にあきれ返った無趣味の歌である。彼は写生主義・写実主義、つまり見たまま感じたままを歌にすることを重んじていたが、なるほどこの歌もご多分に漏れず情景の一面をただ切り取ったのみで、その奥に広がるような美の余韻は全くもって感じられない。写生主義というのは、単に個々人の主観的な美的感覚であるからして、第三者が同様に美を感じられるかなどは全く期待できないのである。

日本の詩歌は、近代化のプロセスによって主観、要は自我意識にこだわるようになり、ここ現代に至っては、いづれを見回しても「自分」「自分」と、恥も外聞もないほどに「自己中心主義」が横行しているのである。このように表現のエトスが「自己満足の美」「押しつけの美」である短歌に触れたところで、かの古今和歌集のような妖艶優雅の美には到底到達できないのである。

近代短歌も歴史を辿れば古今和歌集に到達するが、その共通点といえはば、もはや三十一文字という点だけであり、本質的には全く相いれない異質なものに変容してしまった。
例えば貫之の「霞たちこのめもはるの雪ふれは花なきさとも花そちりける」と比べれば一目瞭然である。この歌には、実在しないが人間の想像力に訴えかける深く広い美の世界がある。ここで理解されるのは、人間は観念によっていかなる世界にも飛躍できるという、壮大な可能性である。雪が花となり、水中が空となる。あの見上げる月の宮中で桜を咲かせることも容易なことだ。写実という辺り数メートルの世界で自己満足している近代短歌とは比較するのもおこがましい感がある。
さらに和歌にはその美を重層化する装置が備わっている。貫之のこの歌で言えば、見立てや掛詞である。雪を花に見立てる。はるに「張る」と「春」を掛ける。単なる言葉遊びと捉えても十分面白いが、この醸成された技法によって妖艶優美の世界がさらに掻きてられる。これを技巧的を言って敬遠し、素朴な歌に終始する近代短歌は、端的にいって文化的知性に乏しいと言えないか。

さてここまで思いの丈を話してきたが、詰まる所、詩歌においては人間の想像力、知力、表現力などの文化的総合力を鑑みるに、古今和歌集を中心とする和歌が近代短歌に優っていることは明らかである。
子規によって不当に貶められた古今和歌集を学び直すことが、現代日本の文化水準を底上げすることに直結するであろと強く思うところである。

→「歌よみに与ふる書(正岡子規)

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(書き手:歌僧 内田圓学)

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