「体言止め」を知る前に、まず「体言」を知らなければなりません。
体言とは自立語の中で活用がないものとされています。まあ簡単にいうと「名詞、代名詞」のたぐいです。
難しく考えると嫌になりますから簡単な方を覚えましょう。

「体言止め」の歌とは、歌の結句を名詞で終らせた歌、ということです。
これは例を見たほうが早いですね。
277「心あてに 折らはや折らむ 初霜の おきまどはせる 白菊の花」(凡河内躬恒)
332「あさほらけ 有明の月と 見るまでに 吉野の里に ふれる白雪」(坂上是則)

「白菊の花」、「白雪」という名詞で終わっていることが分かります。

さて、体言で終わるとなんだか不思議な余韻が残りませんか?
新古今和歌集時代、その効用に気づいた歌人たちは体言止めの歌を多く詠むようになります。
三夕の歌なんかその特徴がよく表れていますよね。
新361「さびしさは その色としも なかりけり 真木立つ山の 秋の夕暮れ」(寂蓮)
新362「心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮れ」(西行)
新363「見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ」(藤原定家)
→関連記事「三夕の歌 ~秋の夕暮れベスト3~

ちなみに三夕は五句目が体言止めとなり、一首がしっかり終わった感がありますが、
これが三句目に現れるとこんな歌になります。
新45「梅が香に むかしをとへば 春の月 こたへぬ影ぞ 袖にうつれる」(藤原家隆)
新210「我がこころ いかにせよとて ほとときす 雲間の月の 影になくらむ」(藤原俊成)

上句の余韻に下句が被さり、重層的でより複雑な余情を感じませんか?
和歌は時代が下るにつれ、この余情を大変重んじるようになっていきます。
そしてそれは「連歌」という形式に帰結。

上句(長句)と下句(短句)の付け合いによって生じる予想不能の余情。
新古今以後、短歌形式(三十一文字)の和歌は衰退していきますが、一方で連歌は大いに盛り上がっていくのです。

(書き手:内田かつひろ)

「和歌の入門教室 一覧」


古今伝授と茶飲み連歌会
 
集まれ数寄者! 「はじめての古今伝授と茶飲み連歌会」

平成和歌所では、誰でも歌を楽しめる茶飲み連歌会を開催しています! 数寄に通じている人も、初心者の方も、誰もが楽しめる歌会です。一緒に風雅の誠を探求しましょう!


 
「四季を味わうルールブック」~古今和歌集で知る日本文化の基本~

「日本は四季が素晴らしい! 」なんて言葉をよく聞きます。
ではその素晴らしい四季、みなさん堪能していますか?
おそらく大半の方は、春の「お花見」、秋の「紅葉狩り」を楽しむ程度に終始しているかと思います。
しかし本来、日本の四季はもっと多様でもっと深く味わえるものなのです。
それで満足しているなんて、私としては「もったいない」としか言いようがありません。
みなさんが日本の四季を十分に味わえていないのには理由があります。
それは四季ひいては日本文化を鑑賞するための「ルールを知らない」のです。
そして他ならぬこのルールブックこそが「古今和歌集」なのです。

本書では古今和歌集の四季(春夏秋冬)歌に焦点を絞り、分かりやすく解説しています。
これをご覧いただき、日本の四季を堪能するための「基本ルール」を身に付けていただければ幸いです。


 
書籍版「百人一首の歌人列伝」

平成和歌所から本が出ました。その名も「百人一首の歌人列伝」!
百人一首は歌ではなく「歌人を楽しむ」ものです。厳選した百人一首二十歌人の面白エピソードと代表歌をぜひ知ってください。
これを読めば「はるか昔にいた正体不明のオジサン」だった歌人たちが、グッと身近に感じられることでしょう。
そして本書を読み終わった後、あらためて百人一首を一番から眺めてみてください。
王朝の歴史絵巻が紐解かれ、つまらなかったあの百首歌たちが息吹を宿し、断然おもしろく感じられるはずです。